デヴィ夫人の若い頃は、現在の華やかな姿からも想像できないほど美しかったといわれています。日本名は根本七保子(ねもと・なおこ)。1940年2月6日に東京で生まれた彼女は、貧しい家庭で育ち、働きながら定時制高校に通う青春時代を送りました。その後、赤坂の高級クラブで働くようになり、19歳でインドネシアのスカルノ大統領と出会います。
やがて22歳で大統領の第三夫人となり、パリの社交界では「東洋の真珠」と称される存在に。2026年11月現在は86歳です。若い頃の写真や本人が公開したモノクロ画像、インタビュー、報道写真をたどると、単に美貌だけで語ることのできない、努力と知性を備えた女性の姿が浮かび上がります。
【若い頃の写真を検証】デヴィ夫人はなぜ「美人」と絶賛されたのか

デヴィ夫人の若い頃の写真を見ると、まず目を引くのが、印象的な目元、整った顔立ち、そして凛とした表情です。
現在のデヴィ夫人といえば、華やかなドレス、大ぶりの宝石、ボリュームのあるアップヘアが印象的ですが、20代の写真では、よりシンプルで洗練された美しさが際立っています。
1960年代のモノクロ写真に残る美貌若い頃のデヴィ夫人の写真は、本人の公式Instagramや、新聞社・報道機関が保管するアーカイブ写真などで確認できます。
特に注目されるのが、1960年代に撮影されたポートレートです。黒髪をまとめたヘアスタイル、際立つ目元、すっきりとした輪郭が印象的で、当時の上流社会にふさわしい気品を感じさせます。
1965年12月には、朝日新聞の報道写真として、スカルノ大統領とデヴィ夫人の写真撮影の様子が記録されています。また、同年のロンドン訪問時の写真も海外の写真アーカイブに残っています。こうした記録は、後年に加工されたイメージ写真とは異なり、当時の公的な場面における姿を伝える資料です。
本人も公開した若い頃の画像が話題に2024年9月5日、デヴィ夫人は自身の公式Instagramに若い頃の写真を複数枚投稿しました。
この投稿はフジテレビ系の情報メディア「めざましmedia」でも取り上げられました。夫人は肌の手入れについて振り返りながら、若き日のモノクロ写真を公開。パリの社交界で「東洋の真珠」と呼ばれた当時を思い起こす内容でした。
同記事では、若い頃の写真だけでなく、デコルテを見せた華やかな装いの写真や、愛犬を抱いて微笑む写真なども紹介されています。
また、2020年10月には、本人が1967年9月の写真を公開。生後6か月の娘カリナさんを抱く27歳当時の姿が話題になりました。母親としての柔らかな表情と、社交界で活躍していた女性としての華やかさが同時に伝わる写真です。
こうした写真から分かるのは、若い頃の美しさが単に派手なメイクや豪華な衣装によるものではなかったということです。自然な表情や立ち居振る舞いにも、独特の存在感がありました。
【生い立ちと学生時代】本名・根本七保子が歩んだ貧しい青春
現在の華やかな生活からは想像しにくいものの、デヴィ夫人の幼少期は決して裕福ではありませんでした。
本人が金融経済教育に関する情報サイト「知るぽると」のインタビューで語ったところによると、1940年、東京府東京市麻布区霞町(現在の東京都港区西麻布)に生まれ、父親は大工、母親は足が不自由だったといいます。
戦争と貧困を経験した幼少期幼い頃は戦争の影響を受け、空襲を避けるため防空壕に避難した経験もありました。
父親は目を患い、家庭の暮らしは苦しい状態に。母親は内職をして家計を支え、デヴィ夫人自身も幼い頃から家族を助けることを意識していたそうです。
本人の回想では、絵を描くことが得意で、母親が内職で貯めたお金を使って絵の先生に習わせてくれたといいます。しかし、学校の月謝を工面するため、母親が知人に頭を下げてお金を借りている姿を目撃したことが、大きな転機になりました。
その経験から、中学校を卒業したら働いて母親を支えようと決意したのです。
デヴィ夫人の学歴は?三田高校の定時制に通っていたデヴィ夫人は中学校卒業後、生命保険会社の千代田生命(現在のジブラルタ生命)に入社しました。
仕事をしながら東京都立三田高校の定時制に通い、昼間は働き、夜は学校で学ぶ生活を送っていました。
加えて、女優になる夢も持っており、六本木の東芸プロに所属して演技や歌、踊りを学んだ経験もあります。映画やテレビで小さな役を務めたことも、本人がインタビューで明かしています。
学歴については、講談社の「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」では三田高校中退と記載されています。したがって、大学卒業などの学歴を持つ人物として紹介するのは正確ではありません。
一方で、学校を離れた後も学ぶ姿勢は変わりませんでした。本人は中学生時代から英語が得意で、外国人と手紙を交換するなど、語学への関心が強かったと振り返っています。
フランス文学やロシア文学など、世界各国の文学作品を読み込んでいたことも、後の海外生活やパリの社交界での活躍につながったと本人は語っています。
【赤坂の高級クラブから運命の出会いへ】スカルノ大統領との関係
デヴィ夫人の人生を大きく変えた場所が、東京・赤坂にあった高級サパークラブ「コパカバーナ」です。
赤坂のコパカバーナで磨いた語学力と社交性本人の2019年のインタビューによると、ある人物の紹介でコパカバーナを訪れたことが、クラブで働くきっかけになりました。
当時のコパカバーナは、海外の要人や外国人の富裕層が集まる社交場として知られていました。夫人の説明では、客の約9割が外国人だったといいます。
頻繁に店を訪れるうちにマダムに気に入られ、アルバイトとして働くようになりました。ここで外国人客と接する経験を重ね、英語力や国際的な社交性を磨いていきます。
2017年の日刊スポーツの記事では、18歳の頃に赤坂の高級クラブで働き始め、当時のサラリーマンの月収に匹敵する金額を1日で稼いだという本人のテレビ番組での回想も紹介されています。
単に美しい女性として注目されたのではなく、語学力や教養を備え、国際的な客と自然に交流できたことが、後の人生を左右する重要な要素になりました。
19歳でスカルノ大統領と出会う1959年、デヴィ夫人はインドネシアの初代大統領スカルノと出会います。当時19歳でした。
出会いの経緯については、本人が複数のインタビューで振り返っています。
2017年の日刊スポーツでは、スカルノ大統領が来日していた際、友人と映画を見に行くための待ち合わせ場所にいたところ、大統領一行と遭遇したというエピソードが紹介されました。
一方、2019年の「Wendy-Net」のインタビューでは、出会いから3か月後にインドネシアへの招待を受けたと語っています。
細かな出会いの場面については報道や本人の回想で説明に違いがありますが、19歳のときにスカルノ大統領と知り合い、その後インドネシアに渡ったという経緯は共通しています。
本人によれば、インドネシアで目にした大統領の存在感や国民からの敬愛に心を動かされ、人生を共にする決意を固めていったそうです。
【年表で整理】第三夫人になった年齢と「東洋の真珠」への道
デヴィ夫人の人生を理解するうえで重要なのが、スカルノ大統領との結婚、その後のインドネシアの政変、そして海外での再出発です。
特に結婚年については、資料によって1959年と1962年の記載があります。テレビ東京の人物紹介では1959年11月にジャカルタで結婚したとされる一方、講談社の人名辞典や『女性自身』の記事では1962年に第三夫人となったと記されています。
本人の回想では19歳で出会い、22歳で大統領夫人となっています。以下では、出会いと第三夫人としての立場が確立した時期を区別して整理します。
| 年代・年齢 | 主な出来事 | 人物史における意味 |
|---|---|---|
| 1940年・0歳 | 東京都麻布区霞町に生まれる | 日本名は根本七保子 |
| 1950年代半ば | 中学校卒業後、千代田生命に入社 | 働きながら定時制高校に通う |
| 10代後半 | 赤坂のコパカバーナで働く | 語学力と社交性を磨く |
| 1959年・19歳 | スカルノ大統領と出会う | インドネシアへ渡る転機 |
| 1962年・22歳 | 第三夫人としての地位を確立 | ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノの名を持つ |
| 1965年・25歳 | インドネシアで政変が発生 | 大統領の政治的立場が大きく変化 |
| 1967年・27歳 | 娘カリナさんとの写真が残る | 本人が亡命した頃の写真として公開 |
| 1970年・30歳 | スカルノ大統領が死去 | パリの社交界で活動を続ける |
| 1970年代後半〜1980年頃 | インドネシアに戻り事業に取り組む | 社交界だけでなく経済活動にも進出 |
| 1991年・51歳 | ニューヨークへ移住 | 国際的な活動を展開 |
| 2000年前後 | 日本のテレビ番組への出演が増加 | タレント・デヴィ夫人として知名度を拡大 |
| 2026年・86歳 | チャリティー活動や情報発信を継続 | 国際文化人・タレントとして活動 |
デヴィ夫人は、インドネシアに渡った後、スカルノ大統領の第三夫人となりました。
このとき大統領から与えられた名前が、ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノです。インドネシア国籍を取得し、大統領を支える立場になりました。
本人のインタビューでは、大統領の健康状態を気遣い、秘書や補佐役のような役割を担っていたと語っています。単に大統領の妻として宮殿で暮らすだけではなく、政治家や各国の要人と接する機会も多かったといいます。
1965年に政変が発生すると、スカルノ大統領の政治的立場は急速に弱まっていきました。デヴィ夫人も、それまでのような安定した生活を送れなくなります。
「東洋の真珠」と呼ばれたパリの社交界デヴィ夫人の美貌を語る際に欠かせないのが、「東洋の真珠」という呼び名です。
これは、インドネシアを離れた後、パリを中心とする社交界で彼女が称賛された際に使われた表現です。
本人は2019年のインタビューで、大統領夫人という地位、財力、若さ、美しさ、そして肌の美しさが評価され、社交界で注目されたと振り返っています。
また、外国人女性が多い社交界の中で、東洋人として独特の存在感を放っていたことも、呼び名の背景にありました。
ただし、彼女の評価は容姿だけにとどまりません。幼少期からの読書経験、英語力、国際的な人脈、異文化への理解なども、社交界で存在感を示す土台になっていました。
【若い頃と現在を比較】86歳になったデヴィ夫人の美貌と変化
1940年2月6日生まれのデヴィ夫人は、2026年11月現在、86歳です。
20代の頃と現在の写真を比べると、顔立ちや肌の質感には年齢に伴う変化が見られます。しかし、華やかなファッションや姿勢、カメラの前での堂々とした表情には、長年にわたって築いてきた本人らしさが表れています。
若い頃と現在の違いを比較若い頃の写真では、黒髪をまとめたスタイルや、比較的シンプルな衣装が多く見られます。現在はアップヘアにロングドレス、宝石を組み合わせたゴージャスな装いが定番です。
比較すると、次のような違いがあります。
- 顔立ち:若い頃は輪郭や肌の滑らかさが際立ち、現在は年齢に伴う自然な変化が見られる。
- ヘアスタイル:若い頃はすっきりとまとめた黒髪、現在はボリュームのある華やかなアップスタイルが特徴。
- ファッション:若い頃は上品で洗練された装い、現在は宝石やドレスを大胆に取り入れたスタイルが中心。
- 表情:若い頃の写真には若々しい華やかさがあり、現在は経験を重ねた落ち着きと自信が感じられる。
2024年9月の公式Instagramでは、デヴィ夫人が久しぶりに肌のメンテナンスを行ったことを報告しました。
本人は目尻や額の変化に驚いたことを明かし、若い頃の写真を見て自分を慰めていると投稿しています。
加えて、美しい肌は努力の賜物だという考えも示しました。若い頃から現在まで、美容に対する意識を持ち続けていることがうかがえます。
2026年のデヴィ夫人はどんな生活を送っている?2026年2月9日には、86歳の誕生日を祝うチャリティーパーティーを東京都内で開催しました。日刊スポーツによると、国連UNHCR協会への支援を目的としたイベントで、杉本彩さんや錦野旦さん、神田うのさんらも出席しました。
この席で若さの秘訣を聞かれたデヴィ夫人は、次のように答えています。
「精神力です。毎朝、鏡を見て『年を取らない』と言い聞かせる。そして美しいもの、愛するものに囲まれていること」
また、2026年8月には愛犬との交流をテーマにしたサロンイベント「ワンニャンティーパーティー」を開催。9月には大相撲秋場所を観戦する姿も報じられました。
10月には母親と弟が眠る墓を訪れた際のカジュアルな服装が話題になり、華やかなドレス姿とは違った自然体の一面も注目されました。
2026年10月14日には公式ブログにも新しい記事が掲載されており、現在も自身の考えや活動について発信を続けています。
若い頃と同じ姿を保っているわけではありません。しかし、ファッションや美容への関心、姿勢、表現力など、年齢を重ねても自分のスタイルを維持しようとする姿勢が、現在の印象につながっています。
【プロの結論】デヴィ夫人の若い頃の美貌の真相は容姿だけではない
デヴィ夫人の若い頃の美しさを理解するには、写真に写る顔立ちだけでなく、当時の社会背景や本人の人生経験にも目を向ける必要があります。
美貌に加えて知性と語学力があった1950年代後半の日本で、若い女性が海外の要人と直接交流する機会は限られていました。デヴィ夫人は赤坂のコパカバーナで外国人客と接し、英語を使いながら国際的な社交の場に慣れていきました。
加えて、世界文学を読み、芸術や文化への関心を深めていました。こうした経験が、インドネシアでの生活やパリの社交界での振る舞いに生かされたと本人は語っています。
つまり、若い頃の美貌が注目された背景には、外見だけではなく、会話力や教養、異文化への適応力がありました。
美容整形や特別な施術が美貌の理由なのかデヴィ夫人の若い頃と現在の写真を比較すると、肌や輪郭に変化があるのは自然なことです。しかし、写真だけを根拠に美容整形や特定の施術の有無を断定することはできません。
本人が公に語っているのは、肌の手入れや美容への意識、そして精神力の大切さです。2024年には肌のメンテナンスについて、2026年には若さを保つための心の持ち方について発信しています。
したがって、若い頃の美貌の真相を特定の美容施術に結びつけるよりも、本人が長年続けてきた美容への意識と、自分らしい外見を維持する努力に注目する方が実像に近いでしょう。
華やかな経歴の裏側にあった自立心デヴィ夫人の人生を振り返ると、幼少期の貧困、働きながらの通学、クラブでの経験、海外移住、政変、社交界での活動、事業への挑戦と、何度も生活環境が変わっています。
本人は2019年のインタビューで、若い頃から人の3倍勉強し、働き、努力してきたという趣旨を語っています。
大統領夫人という肩書を失った後も、インドネシアで事業を始め、ニューヨークを経て日本のテレビ業界で活動するようになりました。
この経歴から見えてくるのは、誰かに与えられた地位に依存せず、環境が変わるたびに自分の役割を作り直してきた女性の姿です。
「東洋の真珠」という呼び名は美貌を象徴するものですが、長く人々の記憶に残っている理由は、それだけではありません。美しさを武器にしながら、知性と行動力で自分の人生を切り開いてきた点にこそ、デヴィ夫人の魅力があります。
【デヴィ夫人の若い頃】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:デヴィ夫人の若い頃の本名は何ですか?
A1:日本名は根本七保子(ねもと・なおこ)です。インドネシア国籍取得後は、ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノという名前になりました。
Q2:デヴィ夫人は若い頃、何歳でスカルノ大統領と結婚しましたか?
A2:本人の回想では、19歳でスカルノ大統領と出会い、22歳で大統領夫人になりました。結婚年については資料によって1959年と1962年の記載があります。
Q3:デヴィ夫人は若い頃、どこのクラブで働いていましたか?
A3:東京・赤坂の高級サパークラブ「コパカバーナ」です。外国人の要人や富裕層が集まる社交場で、英語力を磨く経験を積みました。
Q4:デヴィ夫人はなぜ「東洋の真珠」と呼ばれたのですか?
A4:インドネシアを離れた後、パリの社交界で美貌や肌の美しさ、独特の存在感が評価されたためです。本人もインタビューで、この呼び名について語っています。
Q5:デヴィ夫人は2026年現在、何歳ですか?
A5:1940年2月6日生まれのため、2026年11月現在は86歳です。2026年2月には86歳の誕生日を迎え、チャリティーパーティーも開催しました。
Q6:デヴィ夫人の若い頃の写真や画像はどこで見られますか?
A6:本人の公式Instagramで公開された若い頃の写真のほか、めざましmediaやENCOUNTなどの報道記事、新聞社の報道写真アーカイブで確認できます。特に1967年9月に撮影された娘カリナさんとの写真は、27歳当時の姿を知る貴重な資料です。
Q7:デヴィ夫人は現在も美容に気を使っていますか?
A7:はい。2024年には肌のメンテナンスについて公式SNSで発信し、2026年2月には若さを保つ秘訣として精神力や美しいものに囲まれる生活を挙げています。
デヴィ夫人の若い頃は、確かに圧倒的な美貌で知られていました。根本七保子として東京で生まれ、貧しい家庭を支えるために働きながら学び、赤坂の高級クラブで語学力と社交性を磨き、19歳でスカルノ大統領と出会いました。
22歳で大統領の第三夫人となり、インドネシアでの生活、政変による環境の変化、パリの社交界での活躍、事業への挑戦、そして日本でのタレント活動へと人生を切り開いてきました。
若い頃の写真に残る美貌は、現在も多くの人を魅了しています。しかし、彼女の本当の魅力は、年齢や立場が変わっても自分らしさを失わず、新しい挑戦を続けてきたことにあります。
2026年11月現在86歳。若い頃の「東洋の真珠」から、現在の個性的な国際文化人・タレントへ。デヴィ夫人の人生は、美しさとは外見だけで決まるものではないということを、長い時間をかけて伝えています。
主な事実確認に使用した資料
- 知るぽると「著名人・有識者が語る デヴィ・スカルノ インタビュー」
- Wendy-Net「努力と美貌で掴んだ大統領夫人の座」
- 講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」
- テレビ東京「ソロモン流」
- 日刊スポーツ(2017年4月21日、2026年2月9日)
- 女性自身(2018年12月7日)
- めざましmedia(2024年9月5日)
- ENCOUNT(2020年10月14日)
- デヴィ夫人オフィシャルブログ(2026年)