インドネシア初代大統領スカルノと、日本出身のデヴィ夫人。二人の出会いは1959年、デヴィ夫人が19歳のときだった。日本で暮らしていた一人の女性が、どのようにして大統領夫人となり、政変による亡命、パリの社交界、そして実業家としての成功を経験したのか。その人生は、単なるシンデレラストーリーでは語り尽くせない。
特に気になるのが、二人は何年に結婚したのか、なぜデヴィ夫人は第三夫人と呼ばれるのか、1970年のパリ亡命という情報は正確なのか、そして娘カリナやメガワティ元大統領との関係だ。2026年9月のジャカルタ日報による最新インタビューやインドネシアの大統領公文書資料、本人の証言をもとに、二人の関係とデヴィ夫人の現在までを時系列で整理する。
【運命の出会い】スカルノ大統領とデヴィ夫人の馴れ初めは1959年

デヴィ夫人の本名は根本七保子。1940年2月6日、東京都に生まれた。後にインドネシアでラトナ・サリ・デヴィという名前を与えられ、国際的にはデヴィ・スカルノとして知られるようになる。
若いころの家庭環境は決して裕福ではなかった。生活を支えるために働きながら学び、生命保険会社での勤務を経験。その後、芸術や文学への関心を持ち、舞台や接客の仕事にも携わった。
転機となったのは1959年。19歳だった根本七保子は、来日していたインドネシアのスカルノ大統領と知り合う。
出会いの場所については複数の記録がある。インドネシアの大統領公文書研究センターの人物資料では、1959年6月16日に東京・赤坂のクラブ「コパカバーナ」で出会い、その後、帝国ホテルでも会ったと紹介されている。一方、ANTARA通信は帝国ホテルでの出会いを伝えている。
また、デヴィ夫人自身は2019年のテレビ番組出演時、友人と映画を見に行くため待ち合わせていた際に大統領一行と偶然出会い、お茶の席に誘われたと振り返った。
つまり、出会いの細かな状況には証言の違いがあるものの、1959年、東京で19歳のデヴィ夫人とスカルノ大統領が知り合ったという点は複数の資料で一致している。
スカルノ大統領のプロポーズと英語で語られた結婚理由二人の関係が深まる過程では、手紙のやり取りも重要な役割を果たした。スカルノはデヴィ夫人をインドネシアに招き、二人は互いの理解を深めていった。
デヴィ夫人が後年のインタビューで語ったプロポーズの言葉は、二人の結婚を理解するうえで象徴的なものだ。
“Please be my inspiration, my strength, and the joy of my life.”
日本語に訳すと、「私のインスピレーションとなり、力の源泉となって、私の人生の喜びとなってほしい」という意味になる。
この言葉について、デヴィ夫人は、100歳まで生きてもこれほど詩的で美しいプロポーズを聞くことはないと思ったという趣旨の発言をしている。
2008年のジャパンタイムズのインタビューでも、彼女は富よりも心を動かす言葉が大切だったと振り返っている。財産や社会的地位だけではなく、スカルノから自分の存在を必要とされたことが、結婚を決意する大きな理由だったと読み取れる。
2019年のSmart FLASHの報道でも、デヴィ夫人はプロポーズの言葉に感激したと語っている。華やかな大統領夫人という立場の裏側には、本人が人生を懸けると決めた個人的な思いがあった。
【結婚は何年?】1962年3月3日が有力だが、記録には複数の説がある
1959年と1962年、なぜ結婚年が異なるのかスカルノ大統領とデヴィ夫人の結婚について調べると、1959年、1962年、1964年という複数の年が登場する。
これは単純な誤記だけでは説明できない。本人のインタビュー、後年のプロフィール、インドネシア側の公的資料で、結婚の時期について異なる記述が残されているためだ。
最初に、2008年のジャパンタイムズのインタビューでは、デヴィ夫人自身の証言として1959年11月にひそかに結婚したという内容が紹介されている。
一方、2019年のテレビ出演を伝えたSmart FLASHは、結婚年を1962年と報道した。インドネシアの通信社ANTARAも、1962年3月3日に正式に結婚したと記載している。
加えて、インドネシアの大統領公文書研究センターのPresidenpediaは、結婚日について二つの記録を紹介している。一つは1962年3月3日、もう一つは1964年5月という説だ。同センターは前者が正しい可能性が高いとの見解を示している。
そのため、一般的なプロフィールや年表では1962年3月3日を有力な結婚日として扱うのが妥当だ。ただし、1959年の本人証言や1964年の資料も存在するため、すべての記録が完全に一致しているわけではない。
デヴィ夫人はなぜ第三夫人と呼ばれるのかデヴィ夫人を紹介するときに必ず登場するのが「スカルノ大統領の第三夫人」という肩書だ。
この呼び方は、独立後の大統領夫人としての関係を整理した場合に理解しやすい。先にファトマワティ、続いてハルティニが妻となり、その後にデヴィ夫人が加わったためである。
ただし、スカルノの生涯における婚姻歴全体を数えると、資料によって順位が変わる。インドネシアの大統領公文書研究センターではデヴィ夫人を第五夫人と記載し、ANTARAの2025年のプロフィール記事では第六夫人と紹介している。
したがって、第三夫人という呼び方は日本語圏で広く定着した歴史的な整理として理解する必要がある。
スカルノ大統領の歴代の妻と家族関係スカルノは生涯に複数の婚姻関係を持った人物であり、妻たちはそれぞれ異なる時代に大統領の人生を支えた。
| 人物 | スカルノとの関係 | 歴史的な位置づけ・家族関係 |
|---|---|---|
| シティ・オエタリ | 初期の妻 | スカルノの若い時代の婚姻相手 |
| インギット・ガルナシ | 妻 | 民族運動に取り組んだ時代を支えた人物 |
| ファトマワティ | 独立後の重要な妻 | 独立時代のファーストレディ。メガワティの母 |
| ハルティニ | 後の妻 | 1953年に結婚。ボゴール宮殿と関係が深い |
| ラトナ・サリ・デヴィ | デヴィ夫人 | 1959年に出会い、1962年婚が有力。娘カリナの母 |
| メガワティ・スカルノプトリ | スカルノの娘 | ファトマワティとの間に生まれた第5代インドネシア大統領 |
| カリナ・カルティカ・サリ・デウィ | スカルノとデヴィ夫人の娘 | 1967年生まれ。教育支援活動にも取り組む |
この表からも分かるように、デヴィ夫人はスカルノの家族史における重要な人物だが、ファトマワティやハルティニとは異なる立場で大統領の晩年を支えた。
特にファトマワティは、インドネシア独立宣言の際に掲げられた国旗を縫った人物として知られる。彼女の娘メガワティは後にインドネシア第5代大統領となった。
こうした背景を理解すると、デヴィ夫人が単に大統領の妻というだけでなく、インドネシアの政治史と深く結びついた存在であることが見えてくる。
【政変と亡命】ヤソオ宮殿での生活からパリへ移った1967年
ヤソオ宮殿はデヴィ夫人のために建てられた邸宅スカルノ大統領とデヴィ夫人の関係を語るうえで欠かせない場所が、インドネシアのジャカルタにあったヤソオ宮殿だ。
インドネシア語ではウィスマ・ヤソオとも呼ばれるこの邸宅は、スカルノがデヴィ夫人のために用意したものだった。
ジャカルタ新聞の2013年の現地取材によると、1963年2月6日、デヴィ夫人の23歳の誕生日にスカルノはジャカルタの一等地に土地を贈り、翌1964年に邸宅が建設された。
名称の「ヤソオ」は、デヴィ夫人の弟である根本八曾男に由来する。夫人にとって、単なる豪邸ではなく、自分の家族に結びついた特別な意味を持つ場所だった。
この邸宅は、大統領官邸であるムルデカ宮殿とは別の施設だった。スカルノは執務後にヤソオ宮殿で過ごすこともあり、当時の大統領周辺の政治的な人間関係を考えるうえでも重要な場所となっていた。
現在、旧ヤソオ宮殿はサトリア・マンダラ軍事博物館の施設として知られている。かつて大統領夫妻が暮らした場所が、後の政治体制下で軍事史を伝える施設になったことにも、インドネシアの複雑な近現代史が表れている。
1965年の政変とスカルノ大統領の失脚二人の生活を大きく変えたのが、1965年9月30日に発生した政変だった。
この事件を境に、インドネシアの政治情勢は急激に変化する。軍部の影響力が拡大し、スカルノ大統領の権力は徐々に弱まっていった。
1967年にはスカルノは大統領としての実権を失い、事実上の軟禁状態に置かれることになる。
デヴィ夫人はこの時期、妊娠や出産を経験しており、スカルノとの生活も以前のようには続けられなくなった。
2026年9月のジャカルタ日報のインタビューでは、デヴィ夫人はスカルノの晩年について、ヤソオ宮殿で事実上の軟禁状態に置かれていたと説明している。娘の出産で日本に戻っていたため、当初は毎月手紙をやり取りしていたが、夫の体調が悪化すると、その頻度は次第に減っていったという。
パリ亡命は1970年ではなく1967年検索されることの多い「デヴィ夫人のパリ亡命1970年」という情報には、年代の整理が必要だ。
デヴィ夫人のオフィシャルブログには、政変後の1967年に夫のスカルノが幽閉され、自身は生後6か月の娘カリナを連れてパリへ亡命したと記されている。
当時、デヴィ夫人は27歳だった。政変によって大統領夫人としての生活が一変し、幼い娘を抱えながら新しい生活を始めなければならなかったのである。
一方、1970年6月21日はスカルノ大統領が亡くなった年だ。つまり、パリへの亡命は1967年、スカルノの死去は1970年と区別する必要がある。
スカルノの死後、デヴィ夫人はインドネシアを離れた生活を続け、フランスを中心とする欧州の社交界でも存在感を示すようになった。
婦人公論の2019年のインタビューでも、政変によって大統領が失脚し、娘を連れてフランスへ移った経緯が紹介されている。
華やかな社交界で「東洋の真珠」と称されるようになった背景には、こうした政治的な混乱を経て、自分自身の立場を築き直した経験があった。
【娘カリナとメガワティ】スカルノ家におけるデヴィ夫人の家族関係
娘カリナは1967年3月11日生まれスカルノ大統領とデヴィ夫人の間には、娘が一人いる。名前はカルティカ・サリ・デウィ・スカルノ。日本ではカリナの愛称でも知られている。
ANTARAの2025年の記事によると、カリナは1967年3月11日生まれ。父はインドネシア初代大統領スカルノ、母はラトナ・サリ・デヴィである。
父が政変によって政治的な立場を失っていく時期に生まれたカリナは、幼少期をパリで過ごした。
その後、東京でテレビ局の記者として働き、ニューヨークでは広告業界に携わった経歴を持つ。さらに米国の財団での活動を経て、教育支援を目的とするカルティカ・スカルノ財団を設立した。
母のデヴィ夫人が国際社交界や実業界で活動してきたのに対し、カリナは教育や子どもたちへの支援という分野で独自の活動を展開している。
二人の人生には、スカルノという歴史的人物を父に持つという共通点がある一方、それぞれ異なる道を歩んできたという特徴がある。
メガワティとデヴィ夫人はどのような関係なのかもう一人、スカルノ家の人物として名前が挙がるのがメガワティ・スカルノプトリだ。
メガワティはスカルノとファトマワティの娘であり、インドネシアの第5代大統領を務めた政治家である。デヴィ夫人の娘カリナとは母親が異なる姉妹関係にあたる。
そのため、メガワティをデヴィ夫人の娘とする説明は誤りだ。二人はスカルノを父に持つ家族関係にある。
興味深いのは、デヴィ夫人がスカルノの晩年に受け取っていた手紙にもメガワティが関係していたことだ。
2026年9月のジャカルタ日報のインタビューで、デヴィ夫人は、スカルノの体調が悪化してからは、メガワティに口述した手紙が自分のもとに届くようになったと振り返っている。
また、同インタビューでは、2026年8月にメガワティ元大統領の孫の結婚式があり、デヴィ夫人の孫キランも出席したことが紹介された。
こうしたエピソードからは、スカルノ家の次世代にも家族としてのつながりが続いている様子がうかがえる。ただし、個々の家族間の感情や私的な関係までを、これらの出来事だけで判断することはできない。
【知られざる実業家時代】パリの社交界からインドネシアのビジネス界へ
スカルノの遺産だけに頼らなかった人生デヴィ夫人については、大統領夫人としての華やかな生活や、パリの社交界での活躍が広く知られている。
しかし、2026年のジャカルタ日報のインタビューで本人が強調したのは、スカルノの死後、自分の力で生計を立てなければならなかったという事実だった。
同インタビューで夫人は、スカルノの遺産を受け取って楽に生活していたという見方について、実際には財産を一円も受け取っていないと説明している。
スカルノは1970年に亡くなったが、政治的な失脚後は自由に財産を管理したり、家族を支援したりできる状況ではなかったという。
デヴィ夫人は、こうした状況を背景に、自分で生活を成り立たせるためにビジネスを学び、実業家として活動する道を選んだ。
1980年代にインドネシアで石油・ガス関連事業に携わる一般にはあまり知られていないが、デヴィ夫人は1980年代にインドネシアへ戻り、実業家として活動した。
2026年9月11日付のジャカルタ日報のインタビューによると、夫人は石油・ガスプラント関連の会社を設立。アメリカ、イギリス、フランスなどの企業のインドネシア国内での代理人として、エネルギー関連の事業に携わった。
日本企業の日揮や千代田化工建設が関係する大型プロジェクトにも参加し、設備や機械の導入に関する業務を手がけたという。
本人の説明では、当時のプロジェクトには非常に大きな資金が動いており、入札書類の作成だけでも相当な費用が必要だった。ある案件では、完成した書類をスーツケース8個に詰めて送ったというエピソードも紹介されている。
当時のインドネシアはスハルト政権下にあり、旧スカルノ派と見なされる人物が政治的に不利な立場に置かれることもあった。
デヴィ夫人は、そうした環境で仕事を続ける難しさを語り、日本企業関係者の支援に感謝している。
加えて、社員が出社する1時間前に仕事を始め、朝7時から夜10時ごろまで働いていたという。約20人の部下を抱えながら事業を進めた経験は、単なる社交界の活動とは大きく異なるものだった。
実業家としての経験が現在の人脈にもつながる2026年のインタビューで夫人は、現在親交のあるインドネシアの友人の多くが、1980年代以降の実業家時代に知り合った人物だと説明している。
これは重要な点だ。デヴィ夫人とインドネシアの関係は、スカルノ大統領の妻だった時代だけで終わっていない。
政治体制が変わった後も現地に戻り、経済活動を通じて人脈を築いたことが、現在まで続くインドネシアとの関係を支えている。
本人の公式ブログにも、パリでの生活やインドネシアでの仕事、会社経営に関する回想が残されている。こうした本人発信と2026年のインタビューを合わせると、実業家としての経歴は、デヴィ夫人の人生を理解するうえで欠かせない要素だと分かる。
【2026年最新】デヴィ夫人の現在は?86歳でも続く国際的な活動
2026年8月、インドネシア独立記念式典に出席2026年11月現在、デヴィ夫人は86歳。1940年2月6日生まれで、2026年2月に86歳の誕生日を迎えている。
2026年の近況として特に注目されたのが、8月17日のインドネシア独立81周年記念式典への出席だ。
ジャカルタ日報によると、デヴィ夫人はインドネシア政府から招待を受け、ジャカルタのムルデカ宮殿を訪問した。
本人によれば、同宮殿を実際に訪れるのは約15年ぶり。式典ではインドネシアの閣僚や各国の外交官と同じエリアに参列し、民族衣装や赤と白を基調とした華やかな式典を見届けたという。
スカルノ大統領の時代からインドネシアを見続けてきた人物が、独立記念式典に招かれたことは、長年続く同国との関係を象徴する出来事でもある。
2026年も日本を拠点に活動2026年9月のジャカルタ日報のインタビューは、東京都渋谷区の自宅兼事務所で行われた。
デヴィ夫人は日本を生活の拠点としながら、インドネシアにも友人や家族との交流のために訪れている。2026年8月の独立記念式典のほか、友人の結婚式などにも出席するなど、国際的な交友関係を維持している。
また、一般財団法人アース・エイド・ソサエティを通じた慈善活動などにも関わってきた。テレビ出演や講演、国際的な交流活動など、元大統領夫人という肩書だけに収まらない活動歴を持つ。
2026年10月には東京地裁で罰金20万円の判決2026年の近況を整理するうえでは、10月6日に報じられた裁判についても触れておく必要がある。
テレビ朝日などの報道によると、デヴィ夫人は2025年に発生した元事務所従業員と元マネージャーへの2件の暴行事件について起訴され、2026年10月6日、東京地裁から罰金20万円の有罪判決を言い渡された。
判決では、従業員や元マネージャーの供述などを踏まえて暴行が認定された。デヴィ夫人は判決後の取材で、起訴内容の一部について自身の認識と異なると説明しつつ、「有罪は有罪」と述べている。
長年にわたる国際的な活動やテレビ出演で知られる人物であっても、社会的な責任を問われる場面はある。2026年の現在を紹介する際には、華やかな経歴だけでなく、こうした直近の公的な出来事も含めて捉える必要がある。
【プロの結論】デヴィ夫人の人生は「大統領夫人」だけでは説明できないデヴィ夫人の人生を理解する際に重要なのは、スカルノとの結婚を人生のすべてとして捉えないことだ。
1959年の出会いと大統領夫人への転身、1965年の政変、1967年の亡命、1970年の夫との死別。その後のパリでの社交活動、1980年代のインドネシアでの実業家時代、そして日本を拠点とした国際活動まで、人生の局面ごとに大きな転換があった。
特に注目したいのは、スカルノの死後に経済的な自立を目指して事業を始めた点だ。大統領夫人という立場を失った後も、国際的な人脈や経験を仕事に結びつけ、自らの活動基盤を築いてきた。
また、デヴィ夫人をめぐる情報を調べる際は、次の3点を区別すると理解しやすい。
- 結婚年:1959年は出会いの年。正式な結婚については1962年3月3日が有力だが、1959年・1964年という記録も存在する。
- 亡命年:パリへ移ったのは1967年。1970年はスカルノの死去した年。
- 夫人の肩書:第三夫人という呼称は広く使われるが、婚姻歴全体の数え方によって資料上の順位は異なる。
この3点を押さえるだけでも、インターネット上で見かける年表やプロフィールの混乱をかなり避けられる。
【よくある質問】スカルノ大統領とデヴィ夫人に関するFAQ
Q1:スカルノ大統領とデヴィ夫人は何年に出会った?
A1:1959年。デヴィ夫人が19歳のときに東京で出会った。インドネシアの公文書資料では、6月16日に赤坂のクラブで知り合ったという記録が紹介されている。
Q2:スカルノ大統領とデヴィ夫人は何年に結婚した?
A2:1962年3月3日が有力な記録だ。ただし、本人の過去のインタビューでは1959年11月の結婚という証言があり、インドネシアの公文書資料には1964年5月という別説も記載されている。
Q3:デヴィ夫人はスカルノ大統領の第三夫人だった?
A3:日本では第三夫人として広く知られている。ファトマワティ、ハルティニに続く大統領夫人としての位置づけによるもの。ただし、スカルノの全婚姻歴を通算する資料では第五夫人や第六夫人と記載される場合もある。
Q4:デヴィ夫人がパリに亡命したのは1970年?
A4:本人の公式ブログによれば1967年。生後6か月の娘カリナを連れてパリへ移った。1970年はスカルノ大統領が亡くなった年である。
Q5:デヴィ夫人の娘カリナとメガワティは姉妹?
A5:父親が同じスカルノで、母親が異なる姉妹にあたる。メガワティはファトマワティとの娘で、カリナはデヴィ夫人との娘。メガワティはインドネシア第5代大統領を務めた。
Q6:デヴィ夫人は2026年現在、何歳?
A6:86歳。1940年2月6日生まれ。2026年8月にはインドネシア独立記念式典に出席し、9月にはジャカルタ日報のインタビューにも応じている。
スカルノ大統領とデヴィ夫人の関係は、1959年の出会いから始まった。19歳の日本人女性だったデヴィ夫人は、スカルノのプロポーズを受け、インドネシアの大統領夫人となる。
しかし、その後の人生は決して平坦ではなかった。1965年の政変、1967年のパリ亡命、1970年のスカルノとの死別を経験し、社交界での活動や実業家としての挑戦を通じて自分の人生を切り開いていった。
娘カリナは教育支援活動に取り組み、メガワティをはじめとするスカルノ家の人々とのつながりも、現在まで歴史の一部として続いている。
2026年現在、デヴィ夫人は86歳。インドネシアの独立記念式典に出席し、かつて暮らした国との交流を続けている。
二人の関係を正確に理解するためには、1959年の出会いと結婚時期の違い、1967年の亡命と1970年の死去、そして第三夫人という呼称の背景を整理することが欠かせない。
スカルノ大統領の妻として歴史に名を残したデヴィ夫人。その人生の本質は、華やかな肩書だけではなく、政治の激変に翻弄されながらも、自らの力で新しい人生を築いてきた歩みにある。