俳優・竹脇無我(たけわき むが)は、知的で端正な二枚目俳優として、昭和から平成にかけて映画やテレビドラマで活躍した名優です。1944年2月17日に生まれ、1960年に映画『しかも彼等は行く』でデビュー。『大岡越前』『だいこんの花』『姿三四郎』『人生劇場』など、現在も語り継がれる作品に出演しました。そして2011年8月21日、67歳で小脳出血のため亡くなっています。
私生活では1970年の結婚、2人の娘、1997年の離婚を経験。さらに40代後半から約8年間にわたってうつ病と向き合い、2001年には舞台復帰を果たしました。2003年に出版した闘病記『凄絶な生還、うつ病になってよかった』には、病気を通じて自分自身の生き方を見つめ直した経験が綴られています。2026年現在、没後15年を迎えた竹脇無我の人生を、経歴、代表作、家族、病気、森繁久彌との交流、最期まで時系列で振り返ります。
【2026年最新】竹脇無我の現在は?死因は小脳出血、67歳で逝去

竹脇無我は、2011年8月21日午後2時5分、東京都内の病院で小脳出血のため亡くなりました。享年67歳でした。
2011年8月22日付の日刊スポーツなどの報道によると、竹脇は同月21日未明、東京都大田区の自宅で倒れ、午前3時6分に意識不明の状態で病院へ搬送されました。その後、集中治療室で治療を受けましたが、同日午後に帰らぬ人となりました。
当時の報道では、以前から高血圧や糖尿病を抱えていたことも伝えられています。亡くなる直前にも血圧の異常が確認され、医師から安静にするよう指示されていたといいます。死因として発表されたのは小脳出血です。うつ病による死ではありません。
2011年8月22日に近親者のみで葬儀葬儀は亡くなった翌日の8月22日、東京都内の教会で近親者による密葬として執り行われました。喪主を務めたのは長女です。
日刊スポーツの報道によれば、最期には2人の娘や前妻らが病床で手を握り、声を掛けていたといいます。家族に見守られながら迎えた最期でした。
また、竹脇は2012年1月の明治座公演『女たちの忠臣蔵』への出演が決まっていました。亡くなる直前には台本が届き、せりふを覚えていたと家族関係者が語っています。俳優として次の舞台に向かっていた最中の突然の訃報でした。
2026年現在も作品を通して存在感を残す2026年現在、竹脇無我本人の新たな芸能活動はありません。しかし、出演作品は現在も放送・映像資料などを通じて見ることができます。
実際に、TOKYO MXの2026年9月30日付『大岡越前 第7部』の放送情報にも、竹脇が演じた医師・榊原伊織の名前が掲載されています。新作出演ではなく、過去の作品が現在の視聴者にも届けられているということです。
竹脇無我の現在を調べる際に押さえておきたいのは、2011年に亡くなっていること、そして現在も代表作が再放送などで視聴されていることの2点です。
【生涯・経歴年表】1944年の誕生から俳優デビュー、晩年まで
竹脇無我は1944年2月17日、千葉県我孫子市で生まれました。父はニュース映画のアナウンサーとして知られた竹脇昌作です。父譲りの知的な雰囲気や美声も、後年の俳優としての魅力につながりました。
高校時代に松竹へ入り、16歳で映画デビュー竹脇が俳優の道に進んだのは1960年です。青山学院高等部に在学中、松竹大船撮影所に入り、映画『しかも彼等は行く』でデビューしました。当時はまだ16歳でした。
1965年には『アンコ椿は恋の花』で映画初主演を務めます。以降、『青雲やくざ』などの作品にも出演し、松竹の若手スターとして注目を集めました。
俳優業と並行して学業にも取り組み、1969年には青山学院大学法学部を卒業しています。芸能活動だけに専念するのではなく、大学教育も修めた経歴は、知的な俳優というイメージにも重なります。
竹脇無我の生涯を時系列で振り返る1944年2月17日:千葉県我孫子市で誕生。父はアナウンサーの竹脇昌作。
1960年:16歳で松竹に入り、映画『しかも彼等は行く』で俳優デビュー。
1965年:映画『アンコ椿は恋の花』で初主演。
1969年:青山学院大学法学部を卒業。
1970年:テレビドラマ『姿三四郎』『だいこんの花』『大岡越前』などで活躍。
1972年:映画『人生劇場 青春・愛欲・残侠篇』に出演。
1991年:親友の俳優・松山英太郎を亡くし、精神的な不調が深まる。
1996年:専門病院でうつ病と診断され、入院。
2001年:長い闘病を経て舞台に復帰。
2003年:闘病記『凄絶な生還、うつ病になってよかった』を出版。
2010年:映画『大奥』に出演。
2011年8月21日:小脳出血により67歳で逝去。
この経歴から見えてくるのは、若くしてスターになった俳優が、映画中心の活動からテレビドラマへ活躍の場を広げ、その後、病気による長い休養を経て再び舞台に立ったという人生です。
生年月日、学歴、出演歴、没年月日については、キネマ旬報の人物データベースやイミダスの人物記事にも記録されています。
【代表作を解説】大岡越前・だいこんの花・姿三四郎・人生劇場
竹脇無我の俳優人生を語るうえで欠かせないのが、時代劇とホームドラマの両方で確かな存在感を発揮したことです。
若い頃は映画スターとして活躍し、1970年代にはテレビドラマで幅広い視聴者に親しまれるようになりました。端正な顔立ちに加え、落ち着いた声や誠実さを感じさせる演技が、さまざまな役柄に生かされています。
『大岡越前』の榊原伊織役は代表的な当たり役竹脇無我の代表作として、最初に挙げられることが多いのがTBSの時代劇『大岡越前』です。
竹脇が演じたのは、医師の榊原伊織。加藤剛が演じる大岡忠相の親友であり、医学の知識と冷静な判断力を持つ人物です。
伊織は、単に事件の解決を助ける医師ではありません。忠相と対等に意見を交わし、事件の背景や人間の心理を見極める役割も担っています。知的で落ち着いた竹脇の持ち味が、役柄に自然に重なっていました。
TOKYO MXの番組紹介でも、榊原伊織は大岡忠相の親友であり、政治や市政を支えるブレーンとして描かれています。第7部では竹脇が伊織役で再登場したことも紹介されています。
『だいこんの花』では森繁久彌と親子役1970年から始まったテレビドラマ『だいこんの花』も、竹脇の代表作です。
竹脇は永山誠役で出演し、森繁久彌と親子役を演じました。脚本には向田邦子らが参加し、親子の関係や日常生活の機微を描いたホームドラマとして親しまれました。
その後の『おやじのヒゲ』シリーズでも森繁と親子役を演じています。時代劇で見せる凛とした雰囲気とは異なる、家庭的で親しみやすい一面を視聴者に印象づけました。
『姿三四郎』で見せた若き日の主演俳優としての魅力『姿三四郎』は、竹脇の若き日の代表作の一つです。
1970年には日本テレビのテレビドラマ版に出演したほか、同年7月25日には松竹配給の映画版も公開されました。映画では富田常雄の原作をもとに、柔道家・姿三四郎の成長と葛藤が描かれています。
映画版の監督・脚本は渡辺邦男。竹脇は主人公の姿三四郎を演じました。若々しい身体表現と端正な風貌を生かした役柄で、当時の二枚目スターとしての存在感を示しました。
映画『人生劇場』では青成瓢吉を演じる1972年公開の『人生劇場 青春・愛欲・残侠篇』も重要な出演作です。
原作は尾崎士郎。竹脇が演じた青成瓢吉は、父の死をきっかけに故郷へ戻り、文学や愛情、人間関係の間で葛藤する青年です。
松竹の作品資料にも、竹脇が瓢吉役を演じたことが記録されています。『姿三四郎』のような正統派の青年役だけではなく、人生の苦悩を抱える人物も演じられることを示した作品でした。
代表作と役柄の関係一覧| 人物・作品 | 竹脇無我との関係 | 主な内容・役柄 |
|---|---|---|
| 大岡越前 | テレビ時代劇 | 医師・榊原伊織役。大岡忠相の親友で知的な助言者。 |
| だいこんの花 | テレビドラマ | 永山誠役。森繁久彌と親子役を演じた。 |
| 姿三四郎 | 映画・テレビドラマ | 主人公の姿三四郎役。1970年の映画版にも主演。 |
| 人生劇場 | 1972年公開映画 | 青成瓢吉役。青春と愛情、人生の葛藤を描く作品。 |
| おやじのヒゲ | テレビドラマシリーズ | 森繁久彌と再び親子役で共演。 |
| 大奥 | 2010年公開映画 | 二宮和也演じる人物の父親役として出演。 |
これらの作品を比較すると、竹脇の魅力は単純な二枚目役に限定されていなかったことがわかります。知性、誠実さ、父親としての温かさ、そして人生に迷う青年の弱さまで、幅広い人物像を演じ分けていました。
【結婚・妻・離婚】竹脇無我の家族と2人の娘について
竹脇無我の私生活で関心を集めるテーマの一つが、結婚と離婚、そして娘たちとの関係です。
日刊スポーツの2011年8月23日付報道によると、竹脇は1970年に結婚し、妻との間に2人の娘をもうけました。その後、1997年に離婚しています。
1970年に結婚、2人の娘が誕生竹脇が結婚したのは、映画やテレビで人気を高めていた1970年です。家庭を持った後も俳優として多忙な日々を送りました。
しかし、撮影や舞台などで仕事が続き、家庭生活との両立には難しい面もあったとされています。長期間の別居生活を経て、最終的に1997年に離婚しました。
元妻は芸能活動をしていた人物ではなく、一般の女性として報道されています。名前や詳しいプロフィールを含む情報は、広く公表された人物情報とはなっていません。
娘は2人、長女が父親の葬儀で喪主を務めた竹脇には2人の娘がいます。2011年の訃報では、長女が葬儀の喪主を務めたことが報じられました。
また、日刊スポーツは、最期の病床で2人の娘と前妻らが竹脇に声を掛けていたと伝えています。山梨県立北病院の精神科医による著書紹介でも、離婚した妻、2人の娘、内妻に見守られて最期を迎えたと記されています。
このことから、離婚後も家族とのつながりが完全に途絶えていたわけではなかったことがうかがえます。
晩年には内妻とされる女性もいた竹脇の晩年については、数年前から同居していた女性がいたことも、2011年の日刊スポーツの報道で伝えられています。山梨県立北病院の紹介記事では内妻という表現が使われています。
ただし、内妻とされた女性の詳細なプロフィールや正式な婚姻関係については、一般に確認できる情報が限られています。1970年に結婚した妻とは1997年に離婚しているため、晩年のパートナーと元妻を混同しないことが大切です。
竹脇の家族関係を整理すると、結婚した妻との間に娘が2人おり、その後離婚。晩年には別のパートナーと生活していたという経緯になります。
【うつ病の闘病生活】約8年間の苦悩と『凄絶な生還』の真実
竹脇無我の人生を理解するうえで、俳優としての成功と同じくらい重要なのが、長年にわたる精神的な病気との闘いです。
端正な容姿と落ち着いた役柄から、穏やかで悩みの少ない人物という印象を持たれることもありました。しかし実際には、40代後半から精神的な不調に苦しみ、仕事を続けることさえ困難になる時期を経験しています。
1991年、親友・松山英太郎の死が大きな転機に竹脇の闘病を語る際に重要な人物が、俳優の松山英太郎です。
松山は1991年、食道がんで亡くなりました。竹脇にとって親しい友人だった松山の死は、大きな喪失体験となりました。
竹脇自身の著書をもとにした精神科医の解説によると、この出来事をきっかけに飲酒量が増え、精神状態にも変化が現れたといいます。
さらに竹脇は、49歳で亡くなった父・竹脇昌作の年齢に自分が近づくことにも強い不安を感じていました。父親の死と親友の死という二つの喪失が、心の負担として重なっていったのです。
1996年に専門病院で診断、俳優活動を中断症状が悪化した竹脇は、1996年1月に専門病院で診断を受け、そのまま入院しました。
精神科医・山田和夫による解説記事では、竹脇が著書の中で、体が思うように動かず、仕事を直前にキャンセルせざるを得なかった経験を振り返っていることが紹介されています。
当時は俳優としての責任を果たせないことに苦しみ、舞台の長いせりふを自分で言えず、事前に録音した音声を使ったこともあったと日刊スポーツは報じています。
また、うつ病の症状が強かった時期には、自殺衝動に苦しむほど追い詰められていたことも、本人の手記を紹介する医療機関の解説に記されています。
森繁久彌や加藤剛からの手紙が支えに長い闘病生活の中で、竹脇を支えたのは医療だけではありませんでした。
山田医師の解説によると、竹脇は森繁久彌や『大岡越前』で共演した加藤剛から届いた手紙に励まされたといいます。
特に森繁は、竹脇が体調を崩して思うように演技ができないときも、強く責めることなく見守っていたと紹介されています。
竹脇自身は、うつ病からの回復に必要なものとして、休養、薬の助け、治したいという本人の気持ち、周囲の支えを挙げていました。
2001年に舞台復帰、2003年に闘病記を出版約8年間に及ぶ闘病の末、竹脇は2001年に舞台へ復帰しました。
そして2003年7月、マキノ出版から『凄絶な生還、うつ病になってよかった』を出版します。精神科医の上島国利が監修した174ページの闘病手記です。
東京都立図書館の書誌情報やCiNii Booksにも登録されている同書には、父親の死、家族との問題、離婚、うつ病の症状、回復までの経験がまとめられています。
特に注目したいのは、病気を経験した後に、竹脇自身の生活に対する考え方が変わったという点です。
以前は俳優としてのイメージや見栄を気にしていたものの、回復後は自分が本当に落ち着ける生活を大切にするようになったといいます。医療機関の紹介記事でも、病気を通して「等身大の自分」として生きられるようになったことが紹介されています。
「うつ病になってよかった」という言葉の本当の意味書名にある「うつ病になってよかった」という言葉は、病気そのものが望ましいという意味ではありません。
竹脇が伝えたかったのは、苦しい経験から回復する過程で、それまでの自分の生き方や価値観を見直すことができたという実感です。
それまで俳優としての外見や世間からの評価を意識していた生活から、自分にとって心地よい暮らし方を選べるようになった。病気を経験したことで、周囲の人の支えや休息の大切さにも気づいたのです。
この手記は、単なる有名俳優の告白本ではありません。精神的な不調を抱えながら働くことの難しさや、休養を取ることの意味、周囲の人が見守ることの重要性を伝える記録としても読まれています。
【森繁久彌との関係】親子役を超えた「おやじ」との深い絆
竹脇無我と森繁久彌の関係は、芸能界でも印象深い交流の一つです。
2人は『だいこんの花』や『おやじのヒゲ』などで親子役を演じました。ドラマの中だけでなく、竹脇は私生活でも森繁を父親のように慕っていたと報道されています。
『だいこんの花』で始まった共演2人の代表的な共演作が、1970年に始まったホームドラマ『だいこんの花』です。
森繁が父親役、竹脇が息子役を演じ、家庭を舞台にした人間関係を描きました。作品では親子の自然なやり取りが大きな魅力となり、2人の共演は長く視聴者に親しまれました。
その後も『おやじのヒゲ』シリーズなどで共演を重ね、親子役としての関係が続きます。
森繁久彌を「おやじ」と慕った理由竹脇が森繁を慕った背景には、自身の父親との関係もあったとされています。
竹脇の父・昌作はアナウンサーとして活躍した人物でしたが、竹脇が高校生の頃に自ら命を絶っています。父親を早くに亡くした竹脇にとって、森繁は仕事の先輩であるだけでなく、精神的にも大きな存在だったと考えられます。
日刊スポーツやスポーツニッポンの報道でも、竹脇が森繁を「おやじ」と慕っていたことが紹介されています。
加えて、うつ病の闘病中にも森繁から手紙を受け取り、励まされていたことが、精神科医による解説記事に記録されています。
2009年の森繁久彌の死と竹脇無我森繁久彌は2009年11月10日に亡くなりました。96歳でした。
森繁の葬儀で、竹脇は深い悲しみを見せたとスポーツニッポンが報じています。長年にわたって父親のように慕ってきた人物との別れは、竹脇にとって大きな出来事だったはずです。
2人の関係を単なる共演者として捉えると、その深さは見えてきません。作品の中で親子を演じ、現実でも父親のように頼れる存在となっていたことが、竹脇の人生における森繁との特別な関係を物語っています。
【プロの結論】竹脇無我の俳優人生が今も評価される理由
竹脇無我の人生を振り返ると、俳優としての華やかな成功と、私生活での苦悩が並行していたことがわかります。
16歳で映画デビューし、20代で主演俳優として注目を集め、30代にはテレビドラマで幅広い支持を獲得しました。しかし、その一方で家庭生活の変化や親しい人との別れ、精神的な病気など、決して平坦ではない人生を歩みました。
評価すべき第一の要点は、映画とテレビの両方で残した実績竹脇のキャリアは、映画スターからテレビの人気俳優へと活動の軸を広げた点に特徴があります。
『姿三四郎』や『人生劇場』では主人公として作品を牽引し、『大岡越前』では榊原伊織という重要な人物を長く演じました。さらに『だいこんの花』では森繁久彌と親子役を務め、家庭ドラマでも確かな存在感を示しました。
ジャンルが異なる作品で長く活躍できたことは、竹脇が単なる容姿だけのスターではなく、演技者として幅を持っていたことを示しています。
第二の要点は、闘病経験を自らの言葉で残したこと2003年の闘病記は、俳優としての経歴とは別の意味で大きな価値を持っています。
当時、精神的な病気を公表することには、社会的な偏見や仕事への影響を心配する人も少なくありませんでした。そうした中で、竹脇は自分の体験を本にまとめ、回復までの道のりを伝えました。
病気を経験したことによって、休むことや周囲の支えを受け入れることの大切さを理解したという内容は、芸能界に限らず、多くの働く人にも通じるテーマです。
第三の要点は、晩年まで俳優としての意欲を失わなかったこと竹脇は2001年の舞台復帰後も、映画やテレビへの出演を続けました。2010年公開の『大奥』では二宮和也演じる人物の父親役を務めています。
加えて、亡くなる直前には2012年1月の明治座公演への出演も予定されていました。家族の証言によると、届いた台本のせりふを覚えていたといいます。
病気を経験しても、俳優として再び仕事を続けたいという意欲を持ち続けていたことが伝わるエピソードです。
竹脇無我を知るための判断基準は、ゴシップや病気の話題だけで人物像を決めつけないことです。出演作品、本人が残した闘病記、当時の報道を合わせて見ることで、俳優としての実績と一人の人間としての歩みを、より立体的に理解できます。
竹脇無我に関するよくある質問(FAQ)
Q1:竹脇無我は現在も存命ですか?
A1:いいえ。2011年8月21日に小脳出血のため67歳で亡くなっています。2026年現在は没後15年です。
Q2:竹脇無我の死因は何ですか?
A2:小脳出血です。2011年8月21日午後2時5分に東京都内の病院で亡くなりました。当時の報道では高血圧や糖尿病も伝えられています。
Q3:竹脇無我の妻や子供は何人ですか?
A3:1970年に結婚し、2人の娘が生まれています。1997年に妻と離婚しました。晩年には同居していた女性もいたと報道されています。
Q4:竹脇無我はなぜうつ病になったのですか?
A4:本人の手記や医師の解説によると、1991年の親友・松山英太郎の死や、父親を亡くした経験、家庭生活などのストレスが重なっていました。1996年に専門病院で診断を受け、約8年間にわたり闘病しました。
Q5:『凄絶な生還、うつ病になってよかった』とはどのような本ですか?
A5:2003年7月にマキノ出版から発売された竹脇無我の闘病手記です。上島国利が監修し、うつ病の発症から回復までの経験や、生き方に対する価値観の変化が綴られています。
Q6:竹脇無我と森繁久彌はどのような関係でしたか?
A6:『だいこんの花』『おやじのヒゲ』などで親子役を演じた共演者です。竹脇は森繁を父親のように慕い、私生活でも「おやじ」と呼ぶほど親しい関係でした。
Q7:竹脇無我の代表作は何ですか?
A7:テレビドラマでは『大岡越前』『だいこんの花』『おやじのヒゲ』、映画では『姿三四郎』『人生劇場 青春・愛欲・残侠篇』などが代表作として知られています。
竹脇無我は1944年2月17日に生まれ、1960年に俳優デビューしました。『姿三四郎』『人生劇場』などの映画で人気を集め、『大岡越前』の榊原伊織役や『だいこんの花』での森繁久彌との親子役によって、幅広い世代に知られる俳優となりました。
一方、1970年の結婚、2人の娘の誕生、1997年の離婚、40代後半からのうつ病との闘いなど、私生活では多くの困難も経験しています。約8年間の闘病を経て2001年に舞台へ復帰し、2003年には『凄絶な生還、うつ病になってよかった』を出版しました。
そして2011年8月21日、小脳出血によって67歳で逝去。2012年の舞台出演を控えていたことからも、最後まで俳優として活動する意欲を持っていたことがうかがえます。
2026年現在、竹脇無我の新しい活動を追うことはできません。しかし、『大岡越前』で見せた知的な榊原伊織、『だいこんの花』での親しみやすい青年役、そして自身の苦悩を率直に記した闘病記は、今もその人物像を伝えています。
竹脇無我の生涯を知ることは、昭和・平成のテレビドラマや映画の歴史を振り返るだけでなく、華やかな世界で生きる俳優の人間的な苦悩と、そこから再び立ち上がる力を知ることにもつながります。