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シュリーフェン・プランとは、ドイツ帝国が第一次世界大戦前に構想した、フランスを短期間で撃破するための軍事作戦構想である。東西からフランスとロシアに挟まれる二正面戦争を避けるため、ドイツ軍の主力を西部戦線に集中させ、ベルギーなどを経由してフランス軍の側面を大きく迂回することを狙った。
この構想を考案したのは、ドイツ陸軍参謀総長を務めたアルフレート・フォン・シュリーフェンである。しかし、1914年に第一次世界大戦が始まると、後任のヘルムート・フォン・モルトケ(小モルトケ)は計画に複数の変更を加えた。ベルギーの抵抗、ロシア軍の予想外に早い進撃、補給の問題、連合軍の反撃によってドイツ軍はマルヌの戦いで後退する。加えて、そもそも「シュリーフェン・プラン」という完成された戦争計画が本当に存在したのかという歴史学上の論争も続いている。
- シュリーフェン・プランの目的: ドイツ帝国が二正面作戦を克服するため、フランスを先に撃破する構想だった。
- 計画の特徴: ベルギーなどを経由する大規模な迂回攻撃によって、フランス軍の側面と後方を突く作戦だった。
- 小モルトケの修正: 東部戦線やドイツ西部国境の防衛を重視したことで、当初の構想から変化した。
- 失敗の決定的局面: 1914年9月のマルヌの戦いでドイツ軍の進撃が止まった。
- 歴史学上の論争: 1905年覚書と1914年の実際の作戦計画は同一ではなく、計画の実在性や継承関係について研究者の見解が分かれている。
【基礎知識】シュリーフェン・プランとは?ドイツ帝国が抱えた二正面作戦の問題

シュリーフェン・プラン(Schlieffen-Plan)は、第一次世界大戦前のドイツ帝国が検討した対仏軍事作戦構想である。
その基本的な発想は、東西の敵国と同時に戦うことを避けるため、まず西側のフランスを短期間で打倒し、その後に東側のロシアへ戦力を移動させるというものだった。
当時のドイツ帝国にとって、フランスとロシアは重大な軍事的脅威だった。
1870~1871年の普仏戦争でフランスに勝利したドイツは、アルザス・ロレーヌを獲得していた。一方、フランスはその領土を失ったことへの強い不満を抱え、ロシアとの軍事的な結び付きを強めていた。
さらに1904年には英仏協商が成立し、ドイツは外交的な包囲を警戒するようになる。
ドイツ軍参謀本部が恐れていたのは、フランスとロシアが同時に攻撃してくる事態だった。西部と東部の双方に兵力を分散すれば、どちらの戦線でも決定的な勝利を得られない可能性がある。
そこで考えられたのが、内線作戦と鉄道輸送を利用して戦力を順次集中させる戦略だった。
シュリーフェン計画の目的は何だったのか目的は大きく3つに整理できる。
1. 二正面戦争の回避: フランスとロシアを同時に相手にする不利な状況を解消する。
2. 西部戦線での早期決着: フランス軍の要塞線を正面から攻撃せず、北方から迂回して撃破する。
3. 東部戦線への兵力転用: フランスを無力化した後、鉄道を利用してロシア方面に主力を移す。
ただし、1905年の覚書における対仏作戦構想と、1914年の二正面戦争に対応した実際の動員・展開計画は区別する必要がある。
この違いは、後述する実在論争の中心にもなっている。
【作戦の仕組み】1905年シュリーフェン覚書は何を狙っていたのか
フランスの要塞線を正面から突破しない1905年12月、シュリーフェンは「フランスとの戦争」を想定した覚書を作成した。
この文書は一般に1905年シュリーフェン覚書、あるいはシュリーフェン・プランとして知られている。
当時のフランスは、ベルフォール、エピナル、トゥール、ヴェルダンなどを結ぶ強固な防衛線を整備していた。
ドイツ軍が正面から攻撃すれば、多数の兵力と時間を必要とする。そこでシュリーフェンが重視したのが、フランス軍の防衛線の北側を迂回する作戦だった。
フランス軍が予想している方向とは異なる北西側から進撃し、敵の側面や後方に回り込む。これによってフランス軍の防衛体制そのものを崩そうとしたのである。
ベルギー・オランダを通過する大規模な迂回攻撃1905年覚書の特徴は、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクの中立を侵害する可能性を含んでいたことだ。
当時のドイツ軍がフランスの要塞線を北から迂回するには、これらの地域を経由する必要があった。
作戦の基本的な流れは次のとおりである。
- ドイツ軍の主力を西部戦線に集中させる。
- ベルギーなどを経由してフランス北部に進出する。
- ブリュッセル、ナミュール方面を含む広い地域で大規模な迂回運動を実施する。
- フランス軍の左翼を包囲し、後方から圧迫する。
- フランス軍の組織的抵抗を崩し、短期間で西部戦線の決着を目指す。
この構想では、右翼の機動力と兵力が特に重要だった。
シュリーフェンの構想は、単にベルギーを通過してパリへ向かうというものではない。敵の主力を包囲するために、広大な地域を使って軍隊を動かす作戦だった。
ドイツ歴史文書・画像館(German History in Documents and Images)が公開する1905年覚書の原文にも、ベルギー軍の抵抗やアントワープ方面の対応、鉄道輸送の制約など、具体的な作戦上の問題が記されている。
1905年覚書には実行上の難題も存在した興味深いのは、シュリーフェン自身も作戦の難しさを認識していた点だ。
覚書には、ベルギー軍が抵抗する可能性、部隊が進軍できる道路の不足、鉄道輸送の制約などが記載されている。
つまり、後世に語られるような、すべての問題を解決した完璧な軍事計画ではなかった。
また、覚書の兵力要求をめぐっても議論がある。研究者テレンス・ズーバーは、当時利用可能な兵力と覚書が必要とする兵力の差に注目し、これを実行可能な作戦計画ではなく、軍備増強を求めるための文書だったと解釈した。
一方、ロバート・フォーリーらは、シュリーフェンの長年の作戦研究と1905年の構想との連続性を重視している。
この違いが、シュリーフェン計画の実在論争を理解するうえで重要になる。
【人物・歴史年表】シュリーフェンと小モルトケの関係、計画の変遷を比較
シュリーフェン・プランを理解するには、考案者と実際に戦争を指揮した人物を分けて考える必要がある。
特に混同されやすいのが、アルフレート・フォン・シュリーフェンとヘルムート・フォン・モルトケの関係だ。
アルフレート・フォン・シュリーフェンとはアルフレート・フォン・シュリーフェンは1833年2月28日にベルリンで生まれたプロイセンの軍人である。
1866年の普墺戦争、1870~1871年の普仏戦争に関係する軍務を経験し、参謀本部で軍事計画の立案に携わった。
1891年にドイツ陸軍参謀総長に就任し、フランスとロシアを想定した軍事戦略を研究した。
1905年に退役前の覚書を残し、1906年に退役。1913年1月4日にベルリンで死去した。
第一次世界大戦の開戦は1914年であり、本人が自らの構想の実際の運用やマルヌの敗北を見ることはなかった。
小モルトケとは何者かヘルムート・フォン・モルトケ(1848~1916)は、シュリーフェンの後任として参謀総長に就任した軍人である。
彼は、普仏戦争などで活躍した名将ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ(1800~1891)の甥にあたる。
両者を区別するため、後任のモルトケは一般に「小モルトケ」と呼ばれる。
1906年1月1日に参謀総長に就任した小モルトケは、変化する軍事情勢に合わせて作戦計画を修正した。
1914年の開戦時にはドイツ軍の作戦指揮を担い、マルヌの戦いでの後退にも関与することになる。
主要人物・関連文書の関係一覧| 人物・文書 | 時期 | 役割・関係 |
|---|---|---|
| アルフレート・フォン・シュリーフェン | 1891~1906年 | ドイツ陸軍参謀総長。対仏迂回作戦構想を発展させた |
| 1905年シュリーフェン覚書 | 1905年12月 | フランスとの戦争を想定した作戦構想を記録 |
| ヘルムート・フォン・モルトケ(小モルトケ) | 1906~1914年 | シュリーフェンの後任。軍事情勢に応じて作戦を修正 |
| テレンス・ズーバー | 1999年以降 | シュリーフェン計画の実在性に疑問を呈した歴史研究者 |
| ロバート・フォーリー | 2000年代 | ズーバー説を批判し、1905年覚書と1914年の計画の連続性を論じた |
| ゲルハルト・P・グロース | 2008年 | 新資料を用いてシュリーフェン計画の存在を擁護した研究者 |
両者の違いは、単純に「優秀な考案者」と「計画を失敗させた後任」という構図では説明できない。
| 比較項目 | シュリーフェン | 小モルトケ |
|---|---|---|
| 主な活動時期 | 19世紀末~1906年 | 1906~1914年 |
| 立場 | 作戦構想の考案者 | 後任の参謀総長 |
| 重視したもの | 右翼の大規模な迂回攻撃 | 複数戦線への対応と戦力配分 |
| 西部戦線 | フランス軍の大規模包囲を構想 | 右翼の兵力などを変更 |
| 東部戦線 | 西部での早期決着を重視する構想 | ロシア軍への対応も考慮 |
| 1914年の戦争 | 開戦前に死去 | 開戦時の作戦指揮を担当 |
ドイツ歴史博物館の人物資料によると、小モルトケは1912年にも軍事状況の変化に対応するため、シュリーフェン計画の修正に取り組んでいた。
重要なのは、1914年に実施された作戦を、1905年の覚書と完全に同一視しないことだ。
【第一次世界大戦】ベルギー中立侵犯からマルヌの戦いまでの経緯
第一次世界大戦はなぜ始まったのか1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻がサラエボで暗殺された。
この事件をきっかけにオーストリア=ハンガリーとセルビアの対立が激化し、ドイツ、ロシア、フランスなどの大国が関与する外交危機へと発展した。
7月28日にオーストリア=ハンガリーがセルビアに宣戦布告。ロシアの動員、ドイツの対露宣戦、フランスへの宣戦と、戦争は急速に拡大した。
この時点でシュリーフェン・プランは、ドイツ軍の動員と西部戦線への展開を大きく左右する軍事的な前提となっていた。
ベルギー中立侵犯が英国参戦につながったシュリーフェン計画の実行において、特に重大だったのがベルギーの中立侵犯である。
ベルギーは1839年のロンドン条約によって、その独立と中立が国際的に保障されていた。
しかし、ドイツ軍はフランス北部へ進出するためにベルギーの通過を必要とした。
1914年8月2日、ドイツはベルギーに軍隊の自由通行を要求したが、ベルギー政府はこれを拒否した。
8月4日、ドイツ軍はベルギーへ侵攻。同日、英国はドイツに宣戦布告した。
英国とフランスの1904年の英仏協商は、それ自体が相互参戦を義務付ける軍事同盟ではなかった。しかし、ベルギー中立を保障する条約上の責任は英国の外交判断に大きな影響を与えた。
つまり、フランスを短期間で倒そうとしたドイツの軍事戦略は、英国を敵側に引き込む重大な外交的結果を生んだのである。
1914年の重要な出来事を時系列で整理| 年月日 | 出来事 | 歴史的な意味 |
|---|---|---|
| 1914年6月28日 | サラエボ事件 | 第一次世界大戦につながる国際危機の発端 |
| 7月28日 | オーストリア=ハンガリーがセルビアに宣戦 | 欧州の外交危機が戦争へ発展 |
| 8月1日 | ドイツがロシアに宣戦 | 二正面戦争が現実化 |
| 8月2日 | ドイツがベルギーに通過を要求 | 西部作戦の実行段階へ |
| 8月3日 | ドイツがフランスに宣戦 | 対仏作戦が本格化 |
| 8月4日 | ドイツ軍がベルギーへ侵攻 | ベルギー中立侵犯、英国参戦 |
| 8月下旬 | ドイツ軍がフランス北部へ進撃 | パリ方面への脅威が高まる |
| 9月6~12日 | マルヌの戦い | ドイツ軍の進撃が停止し、後退 |
| 1914年秋以降 | 西部戦線の塹壕戦が本格化 | 短期決戦構想が崩れ、長期消耗戦へ |
この時系列から分かるのは、シュリーフェン・プランが単なる軍隊の移動計画ではなかったということだ。
中立国の領土を通過するという選択は、軍事的な利点と引き換えに、外交的な危険を増大させた。
【失敗理由を徹底分析】マルヌの戦いでドイツ軍はなぜ敗れたのか
理由1:ベルギー軍の抵抗で進撃が遅れたドイツ軍はベルギー軍が強い抵抗を続けることを十分に織り込めなかった。
特にリエージュなどの要塞地帯では、ベルギー軍の抵抗がドイツ軍の進撃を妨げた。
計画上は、迅速な進軍によってフランス軍が十分な対応を取る前に北方から包囲を完成させることが重要だった。
ところが、実際にはベルギー軍の抵抗によって時間を消費し、作戦全体の進行に影響が出た。
理由2:英国遠征軍とフランス軍の抵抗ドイツ軍の予想に反して、英国遠征軍(BEF)がフランス側に加わった。
さらにフランス軍も敗走を続けながら、部隊を再編して反撃の機会をうかがっていた。
ドイツ軍が短期間でフランス軍を包囲し、決定的な勝利を収めるという構想は、連合軍の抵抗によって難しくなった。
理由3:ロシア軍の予想外に早い進撃ドイツ軍が西部戦線に主力を集中させるうえで、東部戦線のロシア軍が動き出すまでの時間は重要な条件だった。
ところが、ロシア軍はドイツ側の想定より早く東プロイセンへ進撃した。
そのため、ドイツ軍は東部戦線にも対応しなければならなくなり、西部での兵力集中が難しくなった。
これはシュリーフェン計画の根本的な前提を揺るがす問題だった。
理由4:補給と通信の問題ドイツ軍の進撃は、広大な地域にわたる大規模な軍隊の移動を必要とした。
しかし、兵士が長距離を徒歩で進めば疲労が蓄積し、食料や弾薬の輸送も難しくなる。
鉄道を利用したとしても、前線の部隊すべてに必要な物資を届けられるわけではない。
また、複数の軍が離れて進むことで、司令部と前線の連絡にも問題が生じた。
当時の通信技術では、広範囲に展開する軍隊の状況をリアルタイムで正確に把握することは難しかった。
理由5:マルヌの戦いで生じたドイツ軍の間隙1914年9月、ドイツ軍はパリ東方のマルヌ川周辺まで進撃していた。
しかし、ドイツ第1軍を率いるアレクサンダー・フォン・クルックは、パリの西側を大きく迂回する当初の構想とは異なる動きを取り、南東方向へ進んだ。
この動きによって、第1軍と第2軍の連携に問題が生じ、両軍の間に大きな隙間が生まれた。
フランス軍はこの機会を逃さなかった。
ジョゼフ・ジョフル総司令官の指揮のもと、フランス第6軍などがドイツ軍の側面を攻撃。英国遠征軍とフランス第5軍も連携して、ドイツ軍の陣形に圧力をかけた。
ドイツ軍は前進を続けることが難しくなり、1914年9月9日には後退を決断した。
マルヌの戦いは何を意味したのかマルヌの戦いは、1914年9月6~12日に行われた第一次世界大戦初期の重要な戦闘である。
ドイツ軍はパリ攻略を断念し、北方へ後退した。
これによってフランスは短期間での敗北を免れ、ドイツ軍の西部戦線における決定的勝利も実現しなかった。
戦闘後、双方の軍隊は敵の側面を回り込もうとする競争を続け、やがて北海からスイス国境に至る長大な戦線が形成された。
塹壕、機関銃、重砲などを中心とする消耗戦が本格化し、第一次世界大戦は当初の予想を超える長期戦へと変わっていった。
マルヌの戦いは、シュリーフェン・プランが想定した短期決戦の破綻を象徴する出来事だった。
【歴史学上の真相】シュリーフェン・プランは本当に存在したのか
計画の実在性をめぐる論争とはシュリーフェン・プランには、一般的な歴史解説ではあまり触れられない重要な問題がある。
それは、1905年覚書が1914年のドイツ軍の正式な戦争計画だったのかという疑問である。
長年、シュリーフェン・プランはドイツ軍が第一次世界大戦で実行した作戦の基本計画として扱われてきた。
しかし、1990年代末以降、この理解に異議を唱える研究が登場した。
代表的な研究者が、元米陸軍将校で軍事史研究者のテレンス・ズーバーである。
テレンス・ズーバーの「計画は神話だった」という説ズーバーは1999年の論文や2002年刊行の著書『Inventing the Schlieffen Plan』で、一般に知られているシュリーフェン・プランの実在性に疑問を呈した。
彼の主張の中心は、1905年覚書が実際に戦争を遂行するための完成された作戦計画ではなかったというものだ。
ズーバーは、次のような点を根拠に挙げている。
- 覚書が要求する兵力が、当時のドイツ軍の実際の兵力を上回っていた。
- シュリーフェンの過去の作戦研究と、1905年覚書の内容には単純な連続性がない。
- 小モルトケが1914年に実施した計画は、1905年覚書と同一ではなかった。
- 戦後のドイツ軍参謀本部が、マルヌの敗北の責任を小モルトケらに帰すため、シュリーフェンの構想を理想化した可能性がある。
ズーバーによれば、後世に語られた「完璧なシュリーフェン計画を小モルトケが改悪した」という説明には、戦後の責任論が影響していた。
この説は、従来の軍事史の理解を大きく揺さぶった。
反対説:シュリーフェンの構想は実際の作戦に継承された一方、ズーバーの主張を支持しない研究者もいる。
ロバート・T・フォーリーは2006年の論文『The Real Schlieffen Plan』で、1905年覚書とそれ以前のシュリーフェンの作戦思想との連続性を論じた。
また、ゲルハルト・P・グロースは2008年の論文『There Was a Schlieffen Plan』で、ズーバーが十分に考慮していない資料や地図を取り上げ、シュリーフェン計画の存在を擁護した。
加えて、テレンス・ホームズも小モルトケの作戦とシュリーフェンの構想の関係について研究し、両者の間に一定の継承関係があったと論じている。
つまり、シュリーフェン・プランを完全な創作とみなす立場と、実際の作戦思想として存在したとみなす立場が対立している。
2026年時点での歴史学上の評価2026年時点で重要なのは、単純な二者択一を避けることだ。
第一次世界大戦研究の国際的な専門資料である『1914-1918 Online: International Encyclopedia of the First World War』の戦前軍事計画に関する解説では、ズーバーの研究は重要な問題提起として評価されている一方、その結論が研究者の間で広く受け入れられているわけではないと整理されている。
また、現在の研究では、1891年から1914年までのドイツ軍の作戦計画が一貫した一本道だったという理解も見直されている。
シュリーフェンの覚書、小モルトケによる修正、毎年の動員・展開計画、政治情勢の変化は、それぞれ区別して検討する必要がある。
その意味で、1914年のドイツ軍の作戦を「シュリーフェン・プラン」とだけ呼ぶより、「シュリーフェン=モルトケ計画」と捉えるほうが、実際の変遷を理解しやすい。
【プロの結論】シュリーフェン・プランの歴史的評価と現代に残した教訓
シュリーフェン・プランの歴史的評価は、単に軍事作戦の成功・失敗だけでは決められない。
この構想が示したのは、軍事計画の合理性と、実際の戦争で求められる柔軟性との間に存在する大きな隔たりだった。
評価1:軍事的な合理性と政治的な危険性が同居していた敵の側面を迂回して主力を包囲するという発想には、軍事的な合理性があった。
しかし、その作戦を実行するためには、ベルギーなどの中立を侵害する必要があった。
結果として、ドイツ軍は英国の参戦を招き、戦争をさらに拡大させる外交的リスクを負った。
軍事的な成功だけを追求した結果、戦略全体では不利な状況を生み出したのである。
評価2:計画の完成度と実行可能性は別問題だったシュリーフェンの構想は、大規模な兵力移動、鉄道輸送、部隊間の連携など、多くの条件がそろうことを前提としていた。
しかし、戦場では予想外の抵抗や補給の遅れが発生する。
どれほど緻密な計画でも、現場の状況が変われば修正を迫られる。
マルヌの戦いは、軍事計画における柔軟性の欠如や、広範囲に展開した軍隊を統制する難しさを示した。
評価3:失敗の責任を一人に帰すことはできない小モルトケの修正が失敗の一因だったという見方は、長く語られてきた。
しかし、実際にはベルギー軍の抵抗、ロシア軍の進撃、英国遠征軍の参加、補給と通信の問題、フランス軍の反撃など、複数の要因が重なっていた。
シュリーフェンが考案した構想をそのまま実行していれば必ず勝利できた、という証拠もない。
むしろ、計画の前提条件そのものに問題があったと考えるべきだろう。
歴史を理解するための3つの判断基準シュリーフェン・プランを学ぶ際は、次の3点を意識すると理解が深まる。
1. 1905年覚書と1914年の作戦を分ける。 両者には連続性がある一方、内容や条件には違いがある。
2. 軍事と外交を切り離さない。 ベルギー中立侵犯は、作戦上の選択が国際政治に及ぼす影響を示している。
3. 結果だけでなく前提条件を検証する。 失敗した理由は指揮官の能力だけではなく、兵力、補給、通信、敵の対応などにも存在した。
シュリーフェン・プランは、20世紀の軍事史における重要な研究対象であると同時に、計画を実行することと、状況に合わせて計画を変えることの難しさを示す歴史的事例でもある。
シュリーフェン・プランに関するよくある質問(FAQ)
Q1:シュリーフェン・プランとは簡単にいうと何ですか?
A1:ドイツ帝国が第一次世界大戦前に考案した対仏作戦構想です。ベルギーなどを経由してフランス軍の側面を大きく迂回し、短期間でフランスを撃破した後、ロシアとの戦争に備えることを狙っていました。
Q2:シュリーフェン・プランはなぜ失敗したのですか?
A2:ベルギー軍の抵抗、ロシア軍の予想外に早い進撃、英国遠征軍の参加、ドイツ軍の補給・通信の問題、フランス軍の反撃などが重なったためです。特に1914年9月のマルヌの戦いでドイツ軍の進撃が止まったことが決定的でした。
Q3:小モルトケはシュリーフェン・プランを改悪したのですか?
A3:小モルトケは東部戦線への対応や西部の防衛を考慮して作戦を修正しました。その変更によって右翼の兵力が弱まったという説明はありますが、敗北の原因を小モルトケ一人に帰すことはできません。作戦自体の実行可能性や補給、敵軍の対応なども関係しています。
Q4:1905年シュリーフェン覚書と1914年の作戦は同じですか?
A4:同じではありません。1905年覚書はベルギーやオランダを含む広範囲の迂回攻撃を構想していましたが、1914年にはオランダへの侵攻は行われず、東部戦線やアルザス・ロレーヌの防衛も重視されました。
Q5:シュリーフェン・プランは本当に存在したのですか?
A5:1905年の覚書そのものは実在します。ただし、それが1914年のドイツ軍の正式な作戦計画としてどこまで継承されていたかについては議論があります。テレンス・ズーバーは計画の実在性に疑問を呈し、ロバート・フォーリーやゲルハルト・グロースらはその存在や継承関係を擁護しています。
シュリーフェン・プランは、ドイツ帝国が抱えていた二正面戦争という根本的な問題を解決するために考案された軍事構想だった。
1905年の覚書では、ベルギーなどを経由してフランス軍を大きく迂回し、短期間で勝利する構想が示された。しかし、1914年に実際の戦争が始まると、小モルトケによる修正、ベルギー軍の抵抗、ロシア軍の進撃、英国の参戦など、さまざまな問題が発生した。
そしてマルヌの戦いでドイツ軍の進撃は止まり、短期決戦という当初の目標は達成できなかった。
加えて、シュリーフェン・プランが完成された正式な作戦計画だったのか、それとも戦後に理想化された軍事構想だったのかという論争も、軍事史研究に重要な問いを残している。
最も重要なのは、1905年のシュリーフェン覚書、1906年以降の小モルトケによる修正、1914年の実際の作戦を一つのものとして扱わないことだ。
この3つを区別すれば、シュリーフェン・プランの目的、失敗理由、ベルギー中立侵犯の意味、そして歴史学上の実在論争まで、第一次世界大戦の開戦と初期戦局をより正確に理解できる。
主要な参考資料・研究記事の歴史的根拠として、以下の一次資料・専門研究を参照しています。
1. ドイツ歴史文書・画像館(GHDI) — 1905年シュリーフェン覚書の原文と解説。
2. ドイツ歴史博物館(DHM) — シュリーフェンと小モルトケの経歴、マルヌの戦いの記録。
3. 1914-1918 Online:International Encyclopedia of the First World War — 戦前のドイツ軍事計画と研究史上の論争。
4. Terence Zuber, Inventing the Schlieffen Plan(2002) — シュリーフェン計画の実在性を疑問視する研究。
5. Robert T. Foley, “The Real Schlieffen Plan”(2006) — ズーバー説への反論。
6. Gerhard P. Groß, “There Was a Schlieffen Plan”(2008) — 計画の存在を支持する研究。
7. 英国議会資料・National Army Museum — ベルギー中立と1914年の開戦経緯。