シベリア出兵とは、1917年のロシア革命後に発生したロシア内戦へ、日本・アメリカ・イギリス・フランスなどの連合国が軍隊を派遣した軍事介入です。1918年8月に始まり、日本軍がシベリア本土から撤退した1922年10月まで続きました。当初は、ロシア国内で孤立していたチェコスロバキア軍団の救援が掲げられましたが、実際には反革命勢力への支援、共産主義の拡大阻止、極東地域における各国の勢力争いなど、複数の政治的・軍事的思惑が絡んでいました。
とりわけ日本は、アメリカなどが撤兵した後も軍隊を残し、1920年の尼港事件を契機として北樺太の保障占領まで実施しました。シベリア本土からの撤兵は1922年に完了したものの、北樺太からの撤退は1925年まで持ち越されています。なぜ日本は長期間にわたって駐兵したのか。ロシア革命から原敬内閣の外交判断、尼港事件、最終的な撤兵までを時系列で整理します。
【基礎知識】シベリア出兵とは?ロシア革命と内戦に介入した国際的軍事行動

シベリア出兵は、1918年から1922年にかけて日本を中心とする連合国がロシア極東からシベリアに軍隊を派遣した出来事です。歴史上は、ロシア革命に対する干渉戦争、あるいは対ソ干渉戦争の一環として位置づけられています。
当時のロシアでは、1917年の二月革命によって帝政が崩壊し、同年11月(ロシア旧暦では10月)にはレーニン率いるボリシェヴィキが政権を掌握しました。これが十月革命です。
革命によって成立したソビエト政権は、第一次世界大戦からの離脱を進め、1918年3月にはドイツなど中央同盟国とのブレスト=リトフスク条約を締結しました。連合国にとって、東部戦線の崩壊は軍事的・外交的な重大問題でした。
加えて、ロシア国内では革命を支持する赤軍と、それに反対する白軍などの勢力が対立し、ロシア内戦へと発展します。国内の政治権力が分裂したことで、各国が自国の利益を守るために介入する余地が生まれました。
出兵した国とロシア内戦の関係シベリア出兵には、日本、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアなどが参加しました。各国は同じ連合国側に立ちながらも、必ずしも同じ目的を持っていたわけではありません。
イギリスやフランスは、ロシアがドイツとの戦争から離脱したことを重大視し、東部戦線の再建や革命勢力の拡大阻止を望んでいました。一方、アメリカのウッドロウ・ウィルソン政権は、チェコスロバキア軍団の救援や軍事物資の保全を中心とする限定的な派兵を主張しました。
日本にとっては、ロシア極東の政治的混乱が朝鮮半島や満州方面の安全保障に及ぼす影響も無視できませんでした。革命勢力の拡大を警戒すると同時に、シベリアや沿海州における政治的・経済的な影響力を確保したいという思惑も存在していました。
つまり、シベリア出兵は単純な人道支援ではありません。ロシア内戦という混乱に対し、各国が異なる国益を持ち込んだ国際的な軍事介入だったのです。
【目的と理由】なぜ日本はシベリアに出兵したのか?チェコ軍団救援と各国の思惑
表向きの目的はチェコスロバキア軍団の救援シベリア出兵の直接的なきっかけとなったのが、チェコスロバキア軍団の問題です。
チェコスロバキア軍団は、第一次世界大戦中にオーストリア=ハンガリー帝国軍から離脱したチェコ人・スロバキア人を中心に編成された部隊です。独立運動を支援するため連合国側で戦っていましたが、ロシア革命によって戦況が大きく変わりました。
当時、ロシアにいた軍団兵は、シベリア鉄道を利用してウラジオストクへ移動し、そこからヨーロッパ方面へ帰還する計画を進めていました。しかし、1918年5月以降、チェリャビンスクなどでボリシェヴィキ側との衝突が発生し、軍団はシベリア各地に分散することになります。
連合国は、この軍団の救出を重要な課題として取り上げました。アメリカからも日本に共同派兵の提案が行われ、チェコスロバキア軍団を救援するという名目で出兵が具体化します。
日本の出兵宣言は1918年8月2日です。国立公文書館が公開する「露領出兵ニ関スル宣言」にも、イギリス・フランス・アメリカとの協調やチェコスロバキア軍救出を目的とする経緯が記録されています。
日本独自の目的は極東地域での影響力確保チェコ軍団救援は出兵を正当化する重要な理由でしたが、日本の政策にはそれ以外の目的もありました。
第一に、ロシア革命によって極東地域の政治秩序が変化することへの警戒です。日本は日露戦争後、ロシアと満州・朝鮮半島をめぐる安全保障上の利害を抱えていました。革命勢力が極東に広がれば、日本の大陸政策にも影響が及ぶと考えられていました。
第二に、シベリア地域における政治的・経済的な影響力の確保です。沿海州やシベリア鉄道沿線は、軍事輸送だけでなく資源や交易の面でも重要な地域でした。日本国内には、ロシアの政治的混乱を利用して勢力圏を拡大しようとする意見が存在しました。
第三に、在留邦人の保護です。ウラジオストクなどには日本人が居住しており、内戦による治安悪化は外交上の問題となっていました。
こうした複数の目的が重なり、日本は当初の救援計画を超える規模で軍隊を送り込むことになります。
日本とアメリカの間にあった出兵方針の違いアメリカは日本によるシベリアでの単独勢力拡大を警戒していました。ウィルソン政権は、派兵の規模を限定し、チェコスロバキア軍団の救援という目的を明確にすることを重視していました。
これに対して日本側には、より広範囲に軍を展開したいという意見がありました。
山川出版社の歴史辞典などによると、当初の派兵計画では日本軍約1万2,000人、アメリカ軍約7,000人という規模が想定されました。しかし、日本軍の実際の派兵規模はその後急速に拡大し、一時は約7万3,000人に達したとされています。
この規模の違いは、単なる兵力の差ではありません。出兵を限定的な国際協力と考えるアメリカと、極東での長期的な影響力確保を重視する日本との政策上の隔たりを示していました。
【時系列・関係者一覧】1918年から1925年までのシベリア出兵の経緯
出兵から撤兵までの重要な出来事シベリア出兵を理解するには、開始した1918年だけでなく、各国の撤兵が進んだ1920年、日本が撤兵を決定した1922年、そして北樺太から撤退した1925年までを一続きの歴史として見る必要があります。
特に重要なのは、シベリア本土からの撤退と北樺太からの撤退が別の時期に行われた点です。
| 時期 | 人物・勢力・地域 | 出来事と関係 |
|---|---|---|
| 1917年2月 | ロシア帝政 | 二月革命が発生し、ロマノフ朝が崩壊する。 |
| 1917年11月 | ボリシェヴィキ | 十月革命によってソビエト政権が成立する。 |
| 1918年8月2日 | 寺内正毅内閣・日本政府 | チェコスロバキア軍団救援を掲げてシベリア出兵を宣言する。 |
| 1918年8月 | 日本軍・アメリカ軍 | ウラジオストクへの上陸を開始する。日本軍は8月12日、アメリカ軍は8月19日に上陸を開始した。 |
| 1918年9月29日 | 原敬内閣 | 原敬内閣が成立。寺内内閣からシベリア出兵政策を引き継ぐ。 |
| 1918年11月 | 第一次世界大戦 | ドイツが降伏し、第一次世界大戦が終結。チェコ軍団救援をめぐる出兵の当初の意義が弱まる。 |
| 1920年1月 | アメリカ・連合国 | アメリカが出兵打ち切りを通告し、各国の撤兵が進む。 |
| 1920年3~5月 | 尼港・ニコラエフスク | 尼港事件が発生。日本軍守備隊や在留邦人など約700人が犠牲になったと日本政府が発表する。 |
| 1920年7月3日 | 原敬内閣 | シベリアの一部地域からの撤兵と、尼港事件を理由とする北樺太の保障占領方針を公表する。 |
| 1922年6月23日 | 日本政府 | シベリア撤兵を閣議決定し、遅くとも10月末までの撤兵を決定する。 |
| 1922年10月25日 | 日本軍 | 最後の部隊がウラジオストクを出港し、シベリア本土からの撤退が完了する。 |
| 1925年1月20日 | 日本・ソ連 | 日ソ基本条約に調印。国交正常化と北樺太撤兵に向けた条件が整う。 |
| 1925年5月15日 | 北樺太 | 日本軍による北樺太の保障占領が終了する。 |
この年表から分かるのは、シベリア出兵が1918年から1922年までの単純な軍事作戦ではなかったことです。各国の撤兵、現地勢力の変化、尼港事件、日ソ外交交渉が重なり、日本の駐兵政策は段階的に変化しました。
寺内内閣から原敬内閣へ引き継がれた出兵政策出兵を宣言したのは寺内正毅内閣です。国立国会図書館の「史料にみる日本の近代」によると、寺内内閣は当初、シベリアへの本格的な派兵に慎重でした。
一方、外務大臣の本野一郎は出兵に積極的で、1918年4月には寺内首相や元老に意見書を提出しています。しかし、当初の慎重論を覆すには至りませんでした。
その後、アメリカがチェコスロバキア軍救援を目的とする日米共同派兵を提案したことで、日本は出兵に踏み切ります。
1918年9月29日には原敬内閣が成立しました。原敬は「平民宰相」と呼ばれた政治家ですが、シベリア出兵については、すでに始まっていた軍事行動を引き継ぐ立場にありました。
したがって、原敬内閣がシベリア出兵を開始したと理解するのは正確ではありません。重要なのは、原内閣が長期化した出兵の収拾と、尼港事件後の対応を担ったことです。
【尼港事件】なぜ日本軍のシベリア駐兵は長期化したのか?
尼港事件とはニコラエフスクで発生した悲惨な事件尼港事件とは、1920年にロシア極東のアムール川河口に位置するニコラエフスク(尼港)で発生した、日本軍守備隊や在留邦人などの大量殺害事件です。
当時のニコラエフスク周辺は、ロシア内戦の影響で政治的な統治が不安定になっていました。ボリシェヴィキ系のパルチザン勢力と日本軍守備隊との間で武力衝突が起こり、現地の状況は急速に悪化します。
1920年3月から5月にかけて、現地の日本軍守備隊、領事館関係者、民間の在留邦人などが殺害されました。日本政府は1920年7月3日の公表文で、約700人の日本人が犠牲になったと説明しています。
当時の日本政府の外交演説によれば、日本軍が尼港に到着したのは6月3日でした。救援のために軍艦や部隊を派遣したものの、到着時にはすでに大きな被害が発生した後だったのです。
原敬内閣の施政方針演説でも、この事件は国家の威信に関わる重大問題として取り上げられています。政府は、犠牲者への対応と事件の解決を外交上の重要課題と位置づけました。
尼港事件が北樺太の保障占領につながった理由日本政府は尼港事件の責任を追及しようとしましたが、当時のロシア極東には、事件について正式に交渉できる安定した政府が存在していませんでした。
そこで日本は、事件の解決と将来の賠償などを担保する措置として、北樺太の必要な地域を占領する方針を打ち出します。
1920年7月3日の日本政府による「薩哈嗹占領に関する宣言」では、将来、責任ある政府が成立し、尼港事件について満足できる解決が実現するまで、北樺太の必要な地点を占領すると説明されました。
これが北樺太の保障占領です。
ここで押さえておきたいのは、シベリア本土への駐兵と北樺太の保障占領は、政策上の理由が異なるという点です。シベリア出兵はロシア革命や内戦への軍事介入として始まりましたが、北樺太の占領は尼港事件への対応を直接の理由として実施されました。
尼港事件は日本の長期駐兵を正当化する転機になった尼港事件は、日本国内でロシア革命勢力に対する警戒感を強める重大な出来事でした。多数の日本人が犠牲になったことで、政府が即時撤兵を決定することは政治的にも難しくなります。
一方、北樺太の占領は、事件の解決を目的とした保障措置という名目を持っていましたが、結果として日本軍による現地支配が長期間続くことになりました。
加えて、北樺太には石油などの資源が存在していました。日本にとって、北樺太の占領は安全保障だけでなく経済的な利益とも結びつく問題になっていきます。
尼港事件を理解する際には、被害を受けた日本人の悲劇と、それを契機として拡大・継続された日本の軍事的関与を分けて考える必要があります。事件そのものと、その後の占領政策は同じ問題ではありません。
【日本軍の長期駐兵と撤兵】原敬内閣の判断から1922年の撤退まで
アメリカなどが撤兵した後も日本軍が残った理由第一次世界大戦が1918年11月に終結すると、チェコスロバキア軍団救援という当初の目的は次第に意味を失っていきました。チェコ軍団も順次シベリアから撤退し、各国が出兵を継続する必要性は低下していきます。
アメリカは1920年1月に出兵の打ち切りを通告しました。イギリスやフランスなども撤兵を進めます。
しかし、日本は直ちに全軍を撤退させませんでした。
日本政府は、ウラジオストクやハバロフスクなどについて、在留邦人の保護や朝鮮半島方面への安全保障上の懸念を理由に、一定の兵力を残す方針を取りました。
1920年7月3日の内田康哉外相の外交演説では、後バイカル地方からの撤兵を開始する一方、ウラジオストクやハバロフスクについては、地域の安定や在留邦人保護の必要性から駐兵を続ける方針が説明されています。
つまり、日本はシベリア全域から一度に撤退するのではなく、地域ごとに駐兵の必要性を判断する政策へ移行したのです。
原敬内閣は撤兵をどのように進めたのか原敬内閣にとって、シベリア問題は外交上の難題でした。
一方では、ロシア革命勢力の拡大を警戒し、日本の安全保障上の利益を確保する必要がありました。他方では、アメリカなどとの協調が崩れ、日本だけが軍事介入を継続することで国際的な批判を招く状況になっていました。
また、出兵の長期化は国家財政にとっても大きな負担でした。現地での軍事行動は当初の救援計画を超え、明確な政治的成果を得られないまま続いていました。
原敬内閣は1920年7月3日、尼港事件への対応を維持しながら、必要性が薄れた地域から撤兵する方針を示しました。ただし、全面撤兵には至らず、北樺太の保障占領や沿海州方面への駐兵は継続されました。
原敬は1921年11月4日に暗殺され、内閣は総辞職します。その後もシベリア問題は継続し、後継政権が最終的な撤兵を決定することになります。
1922年6月23日、ついにシベリア撤兵を決定撤兵を決定づけたのは、国際情勢と日本の外交的立場の変化でした。
日本はシベリアへの駐兵を続けていましたが、現地の革命勢力は依然として強く、反革命勢力を支援しても安定した親日政権を成立させる見通しは立ちませんでした。
加えて、国際社会からの批判や財政負担も重くなっていました。
1922年6月23日、日本政府は閣議でシベリア撤兵を決定しました。決定文では、国際情勢を考慮すると撤兵をこれ以上遅らせることは難しく、外国から撤兵を強く要求された場合、日本政府の立場がさらに困難になると判断しています。
そして、遅くとも同年10月末までに沿海州から撤兵することを決定しました。
アメリカ国務省が公開する外交文書によると、最後の日本軍部隊は1922年10月25日にウラジオストクから出港しています。これによってシベリア本土からの日本軍の撤退が完了しました。
北樺太からの撤兵は1925年まで続いたシベリア本土から撤退した後も、日本軍は北樺太に残っていました。尼港事件の未解決を理由とする保障占領が続いていたためです。
状況が変わったのは1925年1月20日です。この日、日本とソビエト連邦は北京で日ソ基本条約に調印しました。
条約によって両国は外交関係を確立し、日露戦争後のポーツマス条約の効力も確認しました。また、付属議定書では、日本軍が北樺太から1925年5月15日までに撤退することが定められました。
その一方で、日本には北樺太の石油開発などに関する利権が認められました。
このように、シベリア出兵の終結は1922年の撤兵だけでは説明できません。北樺太の占領終了まで含めれば、1925年5月15日が一連の軍事的関与の最終的な区切りとなります。
【出兵の結果と影響】日本が得たもの、失ったものとは?
軍事的な成果は限定的だったシベリア出兵の結果、日本は多くの兵力と財政資金を投入したものの、当初期待したような安定した政治的成果を得ることはできませんでした。
ロシア革命によって成立したソビエト政権を打倒することはできず、支援していた反革命勢力も最終的には敗北します。日本軍の長期駐兵によって、極東地域を恒久的に日本の勢力圏にするという構想も実現しませんでした。
一方で、1925年の日ソ基本条約によって北樺太の石油利権を獲得したことは、日本側にとって外交・経済上の成果でした。ただし、これは軍事介入全体の成功を意味するものではありません。
日本が負担した戦費と人的被害シベリア出兵では、長期間にわたる軍事行動によって多くの兵士が犠牲になりました。
青森県史資料編近現代3の解説によれば、日本が投入した戦費は約10億円、死者は約3,500人に達したとされています。これは当時の国家財政にとって非常に大きな負担でした。
なお、死者数や費用は集計の対象や範囲によって異なる場合があります。ここで示した数字は、同県史のシベリア干渉に関する解説に基づくものです。
戦場では、革命勢力との戦闘だけでなく、厳しい気候や長距離の補給、現地での治安維持なども兵士に大きな負担を与えました。
戦争の目的が曖昧になった後も駐兵が続いたことは、軍事行動の長期化がいかに大きな犠牲につながるかを示す事例です。
日本の外交と国内政治に残した影響シベリア出兵は、日本とアメリカの関係にも影響を与えました。
アメリカは日本の大規模な派兵や長期駐兵を警戒し、極東地域での日本の勢力拡大を懸念していました。両国の政策の違いは、出兵期間を通じて外交上の緊張を生みました。
また、ロシア革命への警戒は、日本国内の社会主義運動や共産主義運動に対する政府の姿勢にも影響を与えました。革命が日本国内に波及することを恐れる政治的な空気が強まっていきます。
ただし、シベリア出兵だけが日本の反共政策や国内治安政策を生み出したわけではありません。国内の社会運動、労働運動、国際的な政治情勢など、複数の要因が関係しています。
シベリア出兵は、第一次世界大戦後の国際秩序の再編と、日本の対外政策の転換を考えるうえで重要な出来事です。
【プロの結論】シベリア出兵から読み解くべき3つの歴史的教訓
1. 人道的な名目と実際の国家戦略は一致するとは限らないシベリア出兵は、チェコスロバキア軍団の救援という比較的明確な目的を掲げて始まりました。しかし、その背後にはロシア革命への干渉、反革命勢力への支援、極東地域での勢力確保など、複数の目的が存在しました。
この事例から読み取れるのは、軍事介入を評価する際には、政府が公表した目的だけでなく、派兵規模、活動地域、駐留期間、外交上の利害を合わせて検討する必要があるということです。
2. 当初の目的を失った軍事行動は長期化しやすい第一次世界大戦が終結し、チェコ軍団の救援という当初の目的が弱まっても、日本軍の駐兵は続きました。
その背景には、革命勢力への警戒、地域の安全保障、在留邦人保護、尼港事件への対応など、次々と追加される理由がありました。
軍事行動の開始時点で明確な目的があっても、情勢の変化に応じて撤退条件を再検討しなければ、目的そのものが変質する可能性があります。
3. 撤兵には軍事的判断だけでなく外交的な出口が必要1922年のシベリア本土撤兵と1925年の北樺太撤退は、軍事的な判断だけで完結したものではありません。国際的な批判、財政負担、ロシア側との交渉、日ソ基本条約の締結などが重なって、最終的な撤退が実現しました。
特に、北樺太の保障占領が日ソ基本条約によって終結したことは、軍事的な対立を外交交渉によって整理することの重要性を示しています。
シベリア出兵を評価する際には、派兵時の大義名分だけでなく、どのような条件で撤退し、どのような結果を残したのかまで確認することが大切です。
シベリア出兵に関するよくある質問(FAQ)
Q1:シベリア出兵はいつからいつまで行われましたか?
A1:日本が出兵を宣言した1918年8月2日から、シベリア本土から撤退した1922年10月までです。ただし、尼港事件を理由とした北樺太の保障占領は継続され、最終的な撤退は1925年5月15日でした。
Q2:シベリア出兵の目的は何でしたか?
A2:表向きの目的は、ロシア内戦に巻き込まれたチェコスロバキア軍団の救援でした。それ以外にも、革命勢力の拡大阻止、在留邦人の保護、軍事物資の保全、極東地域における各国の政治的・経済的利益の確保などが関係していました。
Q3:なぜ日本だけが長期間シベリアに駐留したのですか?
A3:日本は、ロシア革命勢力への警戒や朝鮮半島方面の安全保障、在留邦人の保護などを理由に、アメリカなどが撤兵した後も軍隊を残しました。さらに1920年の尼港事件が発生したことで、北樺太の保障占領も実施されました。
Q4:尼港事件とは何ですか?
A4:1920年、ロシア極東のニコラエフスクで、日本軍守備隊や領事館関係者、在留邦人などがパルチザン勢力によって殺害された事件です。日本政府は約700人が犠牲になったと発表し、事件の解決を担保する措置として北樺太の保障占領を実施しました。
Q5:シベリア出兵を開始したのは原敬ですか?
A5:いいえ。出兵を宣言したのは1918年8月の寺内正毅内閣です。原敬内閣は同年9月29日に成立し、すでに始まっていた出兵政策を引き継ぎました。その後、1920年には一部地域からの撤兵と北樺太の保障占領を進めました。
Q6:シベリア出兵によって日本は何を得ましたか?
A6:軍事的には、ロシア革命勢力を打倒することも、極東地域に安定した親日政権を成立させることもできませんでした。一方、1925年の日ソ基本条約に伴い、北樺太の石油開発などに関する利権を得ました。ただし、投入した戦費や人的被害に見合う軍事的成果を得たとは評価しにくい結果でした。
シベリア出兵とは、1917年のロシア革命とその後の内戦に対し、日本を含む連合国が軍事介入した出来事です。1918年8月にチェコスロバキア軍団救援を掲げて始まりましたが、各国の思惑は一致しておらず、日本は当初の計画を大きく超える規模で軍隊を派遣しました。
第一次世界大戦終結後、アメリカやイギリスなどが撤兵する中でも、日本は極東地域での安全保障や政治的利益を理由に駐兵を継続しました。1920年の尼港事件は北樺太の保障占領につながり、日本の軍事的関与をさらに長期化させます。
最終的に日本軍は1922年10月にシベリア本土から撤退し、1925年5月15日に北樺太からも撤退しました。約10億円の戦費と約3,500人の死者を伴った一方、ロシア革命を阻止するという大きな政治的目標は達成できませんでした。
この歴史から学べるのは、軍事介入の目的と実際の行動が一致しているか、国際協調が維持されているか、そして撤退の条件が明確になっているかという問題です。シベリア出兵は、国家の安全保障と国益を追求する軍事行動が、長期化によって当初の目的を見失い、大きな人的・財政的負担を生み出す可能性を示した歴史的事例なのです。