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喜三翼音さんと母親の思いは?能登豪雨から2年、へその緒と9日後の発見を追う

朝倉 蓮 朝倉 蓮 • 更新: • 公開: • 読了約 25 分
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2024年9月21日、石川県輪島市久手川町を流れる塚田川が氾濫し、川沿いの住宅が濁流に押し流されました。この災害で行方不明となったのが、当時14歳、中学3年生だった喜三翼音(きそ・はのん)さんです。捜索が続くなか、母親が報道陣に見せた小さな木箱と、その中に保管されていたへその緒。そして、家族が娘の帰りを待ち続けた9日間は、多くの人の記憶に残る出来事となりました。

豪雨から2年を迎えた2026年9月には、父親の喜三鷹也さんや祖父母の現在を伝える新たな報道もありました。翼音さんが福井県沖で発見された経緯、母親が捜索中に語った言葉、葬儀までの流れ、そして遺族が現在どのように娘の面影を受け継いでいるのか。2026年11月時点で報道されている情報をもとに整理します。

【人物紹介】喜三翼音さんとは?14歳で犠牲になった中学3年生の素顔

能登大雨中学生母親

喜三翼音さんは、石川県輪島市で暮らしていた中学3年生の女子生徒です。2009年12月28日生まれで、2024年9月の豪雨災害で14歳の生涯を閉じました。

2026年9月20日発売の『女性自身』では、豪雨から2年を迎えるにあたり、父親や祖父母が翼音さんとの思い出を語っています。

将来の夢は公務員。勉強も頑張っていた少女

2026年の報道によると、翼音さんは勉強を頑張る生徒で、成績もよいほうだったといいます。将来は公務員になりたいという夢を持っていました。

中学3年生の夏休みには、金沢市内の高校に体験入学しています。卒業後は野々市市に住む祖父母の家から金沢市の高校へ通う計画もあったと、家族が振り返っています。

高校生活を目前に控え、自分の将来を考えていた時期でした。公務員という夢も、高校進学という目標も、豪雨によって突然断ち切られてしまいました。

祖父母を気遣い、輪島朝市の手伝いもしていた

翼音さんは、輪島塗の蒔絵師だった祖父・喜三誠志さんの仕事に関心を持っていました。絵を描くことが得意で、祖父の作業を眺めることも好きだったといいます。

2024年元日の能登半島地震では、祖父母が営んでいた輪島朝市も大きな被害を受けました。その後、各地で出張輪島朝市が開催されるようになると、翼音さんも朝早くから手伝いに参加しました。

接客や商品の包装、支払いのやり取りなどを担当し、当初はお小遣いが目当てだったかもしれないものの、やがてお小遣いがなくても手伝いたいと話すようになったそうです。

祖母の悦子さんによると、翼音さんは自分の体調を気遣ってくれる優しい子でした。祖母が心配すると「大丈夫や」と答え、逆に祖母の体調を気遣うこともあったといいます。

こうした家族の証言からは、災害の犠牲者という一面だけでは語り尽くせない、翼音さんの日常が見えてきます。

【母親が見つけたへその緒】がれきの中に残されていた小さな木箱

喜三翼音さんの母親に関する報道で、特に多くの人の心に残ったのが、へその緒が入った木箱のエピソードです。

2024年9月24日、FNNプライムオンラインは、フジテレビ系情報番組「めざまし8」で放送された捜索現場の様子を報じました。

母親が報道陣に見せたのは、小さな木箱でした。箱の中には、翼音さんが生まれたときのへその緒が保管されていました。

家のがれきから見つかった、娘とのつながりを示す品

母親の説明によると、その木箱は自宅があった場所の向かい側にある、住宅のがれきの中から出てきたものでした。

家そのものが濁流に押し流され、生活用品や思い出の品が散乱する状況でした。そんななかで見つかったのが、娘が生まれたときから大切に保管されていたへその緒だったのです。

母親はカメラの前で、次のように話しています。

「これしか出てこなかったです。1個でも何かあれば……」

この言葉には、家族の暮らしが失われ、娘の行方も分からないなか、せめて何か一つでも娘につながるものを見つけたいという切実な思いが表れています。

へその緒は、出産時に母親と子どもをつないでいたものです。保管していた木箱が流失した住宅のがれきから見つかったという事実は、当時の母親にとって、翼音さんとのつながりを感じられる大切な出来事だったと考えられます。

へその緒の発見と、翼音さん本人の発見は別の出来事

ここで整理しておきたいのは、へその緒が見つかったことと、翼音さん本人が発見されたことは別の出来事だという点です。

へその緒が見つかったのは、豪雨発生後の捜索活動が続いていた時期です。母親が見せた木箱は、自宅の向かい側のがれきから出てきたものでした。

一方、翼音さん本人が見つかったのは9月30日、福井県の沖合です。発見場所も時期も異なります。

また、報道で確認できるのは、母親が木箱を示して説明したことと、その中にへその緒が入っていたことです。母親が自らどのような方法でがれきの中から掘り出したのかといった詳細までは伝えられていません。

母親の言葉を理解するうえでは、へその緒の発見をセンセーショナルな話題として扱うのではなく、娘の行方を案じる家族が、残された品にどれほどの意味を感じていたのかに目を向ける必要があります。

【2024年9月21日から9日間】塚田川氾濫と喜三翼音さんの捜索経緯

翼音さんが行方不明になったのは、2024年9月21日に発生した令和6年能登半島豪雨です。

石川県輪島市久手川町では塚田川が氾濫し、川沿いの住宅4棟が流されました。翼音さんも、その住宅の一つにいたと報じられています。

氾濫直後、同級生に送っていたメッセージ

FNNプライムオンラインが2024年9月24日に報じた内容によると、翼音さんは9月21日午前9時47分ごろ、同級生にメッセージを送っています。

塚田川が氾濫してから約10分後のことでした。

翼音さんは、自宅周辺の土砂の写真を添え、「うちの家もうでれんよ」と友人に伝えました。

その後のやり取りでは、友人から家の外に出られないことを心配され、翼音さんも「たぶんそうかも」と返信しています。

しかし、午前10時5分ごろのメッセージを最後に、返信は途絶えました。

2026年の父親への取材では、当時、翼音さんは自宅の2階におり、周囲は水で覆われ、部屋のドアも水圧で開かない状態だったと振り返られています。

警察・消防・自衛隊による懸命の捜索

住宅が流された現場では、警察、消防、自衛隊による捜索活動が始まりました。

9月23日には、消防や警察、自衛隊などが参加し、捜索範囲を広げて活動。FNNの報道では、少なくとも150人が参加したとされています。

捜索には父親の鷹也さんも加わりました。地元の消防団にも所属していた鷹也さんは、警察や消防とともに、流された自宅周辺をスコップで探しました。

自宅から下流に流されたノートの切れ端や、小学校時代の工作なども見つかりました。父親は、それらが翼音さんの部屋にあったものではないかと考え、娘の生存を信じて捜索を続けました。

喜三翼音さんをめぐる重要な出来事の年表
時期 出来事・関係者 確認できる内容
2024年9月21日 塚田川氾濫 輪島市久手川町で住宅4棟が流され、翼音さんが行方不明に。
2024年9月23日 捜索活動 警察・消防・自衛隊などが捜索。父親も現場で娘を探す。
2024年9月24日 母親とへその緒 母親が、がれきから出てきたへその緒入りの木箱を報道陣に示す。
2024年9月30日 福井県沖で発見 福井県の漁船が漂流していた女性の遺体を発見。
2024年10月3日 DNA鑑定 福井海上保安署が翼音さん本人と確認したと発表。
2024年10月12日 葬儀 石川県輪島市で葬儀が営まれ、同級生や近隣住民が参列。
2026年9月20~21日 豪雨から2年 父親や祖父母の現在、輪島塗を通した娘の記憶の継承が報道される。

この年表から分かるように、翼音さんの捜索は豪雨直後から続き、発見後もDNA鑑定による身元確認を経て、ようやく葬儀へと進みました。

【9日後の発見】福井県坂井市・福井港沖で何があったのか?

翼音さんが見つかったのは、豪雨発生から9日後の2024年9月30日でした。

福井県坂井市三国町にある福井港から約40キロ沖合で、帰港途中の漁船が漂流していた女性の遺体を発見しました。

発見時に着用していた衣服には「喜三」という名字の記載があり、行方不明となっていた翼音さんの可能性があるとして、福井海上保安署が身元の確認を進めました。

漁船による発見とDNA鑑定

2024年10月1日の福井テレビの報道では、漁船が女性の遺体を発見したのは9月30日午後4時15分ごろと伝えられています。

その後、10月2日に司法解剖が行われ、身元の特定に向けたDNA鑑定が進められました。

そして10月3日、福井海上保安署はDNA鑑定の結果、発見された遺体が喜三翼音さんであると発表しました。

この身元確認によって、長く続いていた家族の捜索と安否確認は、一つの区切りを迎えることになりました。

2026年9月の『女性自身』の取材では、父親が漁船の漁師による発見時の状況についても振り返っています。漁師は海上保安庁が到着するまで翼音さんのそばを離れず、見失わないようにしていたといいます。

父親は、発見してくれた漁師から娘が頑張って浮いていたと伝えられたことを紹介しています。家族にとって、発見に至るまでの経緯は、今も忘れられない記憶となっています。

葬儀は2024年10月12日、輪島市で営まれた

翼音さんの葬儀は、2024年10月12日に石川県輪島市で営まれました。

テレビ朝日の2024年10月13日の報道によると、葬儀には同級生や近所の住民などが参列しました。

遺族は、翼音さんの生前の元気な姿を忘れてほしくないという思いから、式場で本人が映った動画を流したといいます。

祖父の喜三誠志さんは、孫について、家族一人ひとりの胸の中に生き続けるという趣旨の言葉を述べました。また、翼音さんの死を無駄にしないためにも、災害時にはとにかく逃げてほしいと呼びかけています。

2024年10月22日の毎日新聞の取材でも、家族が翼音さんの月命日に思いを語っています。遺影の周囲には花や菓子、好きだったキャラクターのぬいぐるみなどが飾られていました。

【2026年最新】喜三翼音さんの母親と遺族の現在は?父親が始めた新たな歩み

豪雨から2年が経過した2026年9月、北陸朝日放送(HAB)と『女性自身』が、喜三家の現在を伝えました。

報道から見えてくるのは、悲しみが消えたわけではない一方、翼音さんが生前に大切にしていた輪島朝市や輪島塗を通じて、家族が少しずつ日常を取り戻そうとしている姿です。

母親の現在について公表されている情報

母親について、広く報じられたのは2024年9月の捜索活動中にへその緒入りの木箱を示した場面です。

このときの「これしか出てこなかったです。1個でも何かあれば……」という言葉は、母親が娘の行方を案じながら、残された品を大切にしていたことを伝えています。

一方、2026年9月の遺族特集では、父親の鷹也さんと祖父母を中心に近況が紹介されており、母親本人の現在の生活や新たなコメントについては詳しく報じられていません。

そのため、2026年現在の母親の居住地や生活状況、現在の心境を具体的に断定することはできません。2024年の捜索時に語った言葉と、2026年の父親・祖父母の近況は、分けて受け止める必要があります。

父親・喜三鷹也さんは出張輪島朝市を手伝っている

2026年9月21日に放送された北陸朝日放送の特集「能登豪雨から2年 父と娘をつなぐ輪島塗 受け継いだ『生きる力』」では、父親の鷹也さんの現在が紹介されました。

鷹也さんは、輪島塗職人である父・誠志さんが営む出張輪島朝市の店頭に立ち、商品の販売などを手伝っています。

加えて、祖父から輪島塗の技術を教わり、箸作りにも取り組んでいます。

もともと輪島塗の職人になるつもりはなかった鷹也さんですが、娘の死後、仕事に戻ることも難しい時期を経験しました。祖父から自分のペースでできる仕事を提案されたことが、再び働き始めるきっかけになったと『女性自身』は伝えています。

鷹也さんは2026年の取材で、今でも娘に会いたい気持ちがあり、娘がいないことを不思議に感じると語っています。漆塗りに集中しているときや朝市で接客しているときには気が紛れるものの、ふとした瞬間に悲しみが襲ってくるそうです。

仕事を再開したからといって、悲しみがなくなったわけではありません。娘を思いながら、できることを一つずつ続けているのが現在の姿です。

翼音さんが考えたフクロウのデザインが家族をつなぐ

2026年の報道で特に印象的なのが、「翼音のフクロウ」と呼ばれるデザインです。

翼音さんは生前、2羽のフクロウが寄り添うデザインを考えていました。そのアイデアが、現在は輪島塗のカップとして形になっています。

カップは出張輪島朝市で扱われており、商品には家族で考えた手紙が添えられています。

その手紙には、翼音さんがフクロウのキャラクターを考えた経緯とともに、商品を通じて災害の記憶を思い出し、自分にできる備えをしてほしいという願いが込められています。

これは単なる商品の販売ではありません。娘が残したデザインを受け継ぎながら、豪雨災害を風化させないための取り組みでもあります。

祖母・悦子さんが今も大切にしている白い制服

祖母の悦子さんも、翼音さんの思い出を大切にしています。

2026年9月の『女性自身』の取材では、泥だらけになって発見された翼音さんの白い夏服を、悦子さんが何度も手洗いしてきれいにしたことが紹介されました。

クリーニングに出せば済む作業であっても、自分の手で洗ってあげたかったという祖母の思いが伝わってきます。

また、遺族は翼音さんの遺骨を墓に納めず、仏壇に置いていると報じられています。父親は朝起きると仏壇の前で娘にあいさつをすることを日課にしているそうです。

悲しみを忘れるのではなく、娘の存在を日々の暮らしの中に残していく。それが2026年の家族の歩みとして紹介されています。

遺族が直面した誹謗中傷という問題

2026年9月20日の『女性自身』の記事では、鷹也さんが輪島塗の商品について発信する際に、ネット上で心ない誹謗中傷を受けた経験も明かされています。

娘の死を商売に利用しているという趣旨の書き込みがあり、取材を受けることにも戸惑いがあったといいます。

しかし、三回忌を前に、豪雨災害そのものが人々の記憶から薄れていくことへの危機感もあり、取材に応じることを決めたと報じられています。

遺族が娘のデザインを商品に残すことと、災害の記憶や防災意識を伝えることは、本人たちが考えた取り組みです。外部から一方的に評価したり、誹謗中傷を向けたりすることは、遺族の新たな負担になりかねません。

【能登半島豪雨の被害と復興】2026年現在も続く地域再建の課題

翼音さんが犠牲となった2024年9月21日の豪雨は、能登半島地震からの復旧が進められていた地域を再び襲った災害でした。

石川県の復旧・復興進捗ポータルサイトによると、2024年9月20日から22日にかけての大雨では、輪島市で1時間121ミリ、珠洲市で84ミリの降水量を観測しました。48時間降水量は輪島市498ミリ、珠洲市394ミリに達しています。

地震で被害を受けた道路や河川、港湾などが復旧途上にあるなか、豪雨によって浸水や土砂災害が広範囲で発生しました。

塚田川でも進められる河川の復旧

能登半島豪雨では、石川県内の28河川で氾濫による浸水被害が発生したと、内閣府の令和7年版防災白書に記録されています。

国土交通省は、豪雨による河川被害への対応として、輪島市の塚田川などで応急復旧工事に着手しました。河川の護岸や河道の復旧・改良は、地域住民の生活を守るための重要な課題となっています。

石川県の2026年9月30日更新の復旧・復興進捗ポータルサイトでは、能登半島地震と奥能登豪雨による公共土木施設の復旧状況が公開されています。

  • 地震・豪雨を合わせた災害査定箇所:1,364か所
  • 復旧工事に着手した箇所:565か所
  • 全体の工事着手率:41%
  • 公共土木施設の本格復旧目標:優先度の高い箇所は令和10年度まで

この数値は地震と豪雨の両方を合わせたもので、豪雨だけの復旧率ではありません。河川施設については、査定274か所のうち160か所で工事に着手し、着手率は58%と公表されています。

復旧工事は応急対応から本格的な復旧・強靱化へと進められていますが、地域全体の再建にはまだ時間が必要です。

地震と豪雨が重なった能登の複合災害

能登では2024年1月1日に最大震度7を観測した能登半島地震が発生しました。その約9か月後に、今度は記録的な豪雨に襲われています。

一度の災害で生活基盤を失った地域が、再建の途中でもう一度被害を受けたことが、能登の復興を難しくしている背景の一つです。

河川の氾濫だけでなく、道路の寸断、港湾施設の損傷、仮設住宅周辺への土砂流入など、生活や産業に関わる複数の問題が重なりました。

翼音さんの暮らしていた輪島市久手川町の出来事も、単独の水害としてではなく、震災からの復旧途上にあった地域で発生した複合災害の一部として理解する必要があります。

【プロの結論】喜三翼音さんの報道から考える家族の記憶と災害への備え

喜三翼音さんをめぐる報道で、特に大切なのは、母親のへその緒のエピソードと、2026年に伝えられた父親や祖父母の現在を切り離さずに考えることです。

2024年の母親の言葉は、娘の行方が分からない状況で残された品を探し続けた家族の思いを伝えています。一方、2026年の父親や祖父母の証言は、娘を失った後も続く生活と、思い出を受け継ぐための取り組みを伝えています。

9日後の発見と10日後という表現の違い

翼音さんの発見日については、9月30日という日付が確認できます。

9月21日から30日までの経過日数は9日です。ただし、2026年の『女性自身』の記事などでは、豪雨から10日後という表現も使われています。これは9月21日を1日目として数えるか、経過した日数で数えるかによる違いです。

発見日そのものに違いがあるわけではありません。記事によって「9日後」「10日後」と表現が異なる場合は、9月30日という具体的な日付を基準に整理すると混乱を防げます。

へその緒の発見をめぐる事実と、母親の現在を混同しない

母親のへその緒のエピソードは、2024年9月24日のFNNプライムオンラインで具体的に報じられています。

一方、2026年の遺族の現在を伝える報道は、父親と祖父母を中心とした内容です。母親本人の現在の生活や心境について、追加の情報が公表されているわけではありません。

この2つを混同して、2026年の母親の発言として2024年の言葉を紹介したり、現在の居住地や家族関係を推測したりすることは適切ではありません。

この出来事が伝える防災上の教訓

翼音さんの事例から考えたいのは、河川の水位が急激に上昇した場合、避難できる時間が非常に限られるということです。

豪雨災害では、川の水があふれてから避難を始めるのでは遅くなる場合があります。気象情報や自治体の避難情報を確認し、危険が迫る前に安全な場所へ移動することが基本です。

また、道路が冠水している場合は、徒歩でも車でも無理に水の中を進まないことが重要です。すでに外へ出ることが危険な状況なら、建物内のより高い場所など、状況に応じた安全確保が必要になります。

祖父の誠志さんも、葬儀の際に災害時にはとにかく逃げてほしいと呼びかけました。2026年には父親の鷹也さんも、娘の死を無駄にしないために防災への備えを伝えたいという思いを語っています。

家族が輪島塗のフクロウのカップに手紙を添えているのも、翼音さんの記憶を残すだけでなく、災害から命を守る行動につなげたいという願いがあるからです。

【能登大雨で行方不明になった中学生と母親】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:喜三翼音さんの母親が見つけたへその緒とは何ですか?
A1:翼音さんが生まれたときのへその緒を保管していた小さな木箱です。母親は、自宅があった場所の向かい側にある住宅のがれきから出てきたと説明し、「これしか出てこなかったです。1個でも何かあれば……」と語りました。

Q2:喜三翼音さんはいつ、どこで見つかったのですか?
A2:2024年9月30日、福井県坂井市三国町にある福井港から約40キロ沖合で漁船によって発見されました。10月3日にDNA鑑定で本人と確認されています。発見は9月21日の豪雨から9日後に当たります。

Q3:喜三翼音さんの母親は2026年現在どうしているのですか?
A3:2026年9月の主な遺族報道では、父親の鷹也さんと祖父母の近況が中心に紹介されています。母親本人の現在の生活状況や新たなコメントは詳しく公表されていません。

2024年9月21日の能登半島豪雨で、14歳の喜三翼音さんは塚田川の氾濫に巻き込まれ、行方不明となりました。母親が捜索現場で示したへその緒入りの木箱は、娘とのつながりを求める家族の切実な思いを伝える出来事として報じられました。

9月30日に福井県沖で発見され、10月3日にDNA鑑定で本人と確認された翼音さん。10月12日には輪島市で葬儀が営まれ、同級生や近隣住民が別れを惜しみました。

そして2026年、父親は出張輪島朝市の手伝いと輪島塗の仕事を続け、祖父母も翼音さんの思い出を大切にしています。娘が考えたフクロウのデザインはカップとなり、家族から防災へのメッセージを届ける役割も担っています。

母親の2026年現在の詳細は公表されていません。しかし、2024年の捜索中に語った言葉は、今もこの災害を振り返るうえで忘れてはならない証言です。

翼音さんが目指していた高校生活も、公務員になるという夢も、もう実現することはありません。それでも、家族が受け継いでいる作品や思い出、そして災害への備えを呼びかける活動は、翼音さんが生きた証を未来へつないでいます。

能登の復興は、道路や河川、住宅を元に戻すことだけではありません。失われた日常や地域のつながりを取り戻し、同じ悲しみを繰り返さない環境を整えることも含まれます。能登半島豪雨から2年を迎えた今、喜三翼音さんの出来事を忘れず、防災と地域の再建について考え続けることが求められています。

主な参考報道・資料

- FNNプライムオンライン:2024年9月24日、母親とへその緒、捜索活動の報道。
- 福井テレビ:2024年10月3日、DNA鑑定による身元確認。
- テレビ朝日:2024年10月13日、葬儀の報道。
- 毎日新聞:2024年10月22日、家族の月命日の証言。
- 女性自身:2026年9月20日、遺族の現在と父親の証言。
- 北陸朝日放送:2026年9月21日、輪島塗を通じた父親の歩み。
- 石川県:2026年9月30日更新、能登の復旧・復興進捗資料。
- 内閣府:令和7年版防災白書、能登豪雨の被害記録。

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朝倉 蓮
トレンドリサーチャー 朝倉 蓮
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アニメと漫画の担当9年。制作委員会の公式発表と雑誌の告知を照合し、放送日程は公式情報のみ採用します。

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