京セラの創業者は、稲盛和夫(いなもり・かずお)です。1932年に鹿児島県鹿児島市で生まれた稲盛は、鹿児島大学工学部を卒業後、京都の碍子メーカー・松風工業株式会社で技術者として働きました。その後、1958年に同社を退職し、翌1959年4月1日に京都セラミック株式会社(現・京セラ株式会社)を設立しています。
創業時の資本金は300万円、従業員はわずか28名。小さなセラミックスメーカーとして出発した会社は、稲盛の技術力と独自の経営哲学によって成長を遂げました。加えて、1984年には第二電電(現KDDIの前身)を設立し、2010年には経営破綻した日本航空(JAL)の会長に就任するなど、日本の産業界に大きな足跡を残しています。
稲盛は2022年8月24日に90歳で亡くなりましたが、その経営理念やアメーバ経営は現在も受け継がれています。2026年11月現在の京セラの経営体制も含め、生い立ち、学歴、独立の経緯、創業理由、経営哲学、KDDI設立、JAL再建までを時系列で整理します。
【京セラの創業者は稲盛和夫】どんな人物だったのか?

京セラの創業者として知られる稲盛和夫は、単なる技術者や企業経営者ではありません。製造業で事業を成功させた後、通信業界への参入や航空会社の再建にも挑戦した、日本を代表する実業家の一人です。
その特徴は、技術力だけで企業を成長させようとしたのではなく、従業員の幸福や人間としての正しさを経営の中心に据えたことにあります。
稲盛和夫の基本プロフィール稲盛和夫は1932年1月30日、鹿児島市薬師町(現在の鹿児島市城西付近)に生まれました。
京セラ公式のプロフィールや稲盛和夫オフィシャルサイトの年譜によると、1955年に鹿児島大学工学部を卒業し、京都の松風工業株式会社に入社しています。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 氏名 | 稲盛和夫(いなもり・かずお) |
| 生年月日 | 1932年1月30日 |
| 出身地 | 鹿児島県鹿児島市 |
| 最終学歴 | 鹿児島大学工学部卒業 |
| 専攻 | 応用化学 |
| 最初の勤務先 | 松風工業株式会社 |
| 京セラ創業 | 1959年4月1日 |
| 創業時の役職 | 取締役技術部長 |
| 第二電電設立 | 1984年 |
| JAL会長就任 | 2010年2月 |
| 逝去 | 2022年8月24日、90歳 |
特に押さえておきたいのは、稲盛が1959年の創業時から代表取締役社長だったわけではないという点です。
創業当初の役職は取締役技術部長でした。京セラの代表取締役社長に就任したのは、創業から7年目に当たる1966年5月23日です。
創業者という立場と、会社設立時の社長という役職は必ずしも一致しません。この違いを理解すると、京セラの初期の経営体制も正しく把握できます。
技術者から経営者へと進んだ稲盛和夫稲盛の原点は、セラミックスの研究開発にあります。
鹿児島大学で応用化学を学んだ後、松風工業に入社。特殊磁器(ニューセラミックス)の研究に従事し、1956年にはフォルステライトの合成に成功しました。
この研究成果は、後の京セラ創業につながる重要な技術的基盤となります。
稲盛の強みは、研究成果を論文や実験室の中だけにとどめず、製品として市場に送り出すことにありました。
技術を事業に変え、顧客の要求に応えながら製造能力を高める。この考え方は、京セラの創業後も一貫して受け継がれていきます。
【稲盛和夫の生い立ちと学歴】鹿児島大学から松風工業への道
稲盛和夫の経歴を理解するには、鹿児島で過ごした幼少期から学生時代までを振り返る必要があります。
後に世界的な企業を育てた人物ですが、その出発点は決して恵まれた環境だけではありませんでした。
鹿児島で過ごした幼少期と戦争体験稲盛は1932年、鹿児島市薬師町で生まれました。
小学校時代には、鹿児島の伝統的な教育である「郷中教育」に触れています。
1945年には肺浸潤を患い、病床で過ごした経験もありました。同年、鹿児島空襲によって実家が焼失するという困難にも直面しています。
その後、私立鹿児島中学校に進学し、1948年には鹿児島市高等学校第三部(現在の鹿児島市立鹿児島玉龍高等学校)に進みました。
学生時代には家計を助けるため、父親が内職で作った紙袋を自転車に積み、市内で販売する行商も経験しています。
こうした生活経験は、後年の稲盛が語った努力や働くことの意味を考えるうえで、重要な背景の一つです。
鹿児島大学工学部で応用化学を専攻1951年、稲盛は鹿児島大学工学部応用化学科に入学しました。
当初は大阪大学医学部薬学科を受験しましたが合格には至らず、鹿児島大学で化学を学ぶ道を選びます。
大学では有機化学を専攻し、1955年3月に工学部を卒業しました。
同年4月、京都の碍子メーカーである松風工業株式会社に入社します。
当時の日本では、電気・電子産業の発展に伴って、高性能な絶縁材料や特殊セラミックスの需要が高まっていました。
稲盛が研究に携わったニューセラミックスは、まさに成長産業を支える重要な技術だったのです。
松風工業での研究が京セラ創業の土台になった松風工業では、稲盛は特殊磁器の研究開発に取り組みました。
特に注目されるのが、フォルステライトの合成技術です。
その後、ブラウン管テレビなどに使われるセラミック部品の開発にも関わり、研究課は松下電子工業からの受注を獲得するなど、事業としても成長していきました。
京セラの公式アーカイブによると、1957年には松下電子工業から月2万〜3万本の注文を受けるまでになっていました。
この時期に採用された研究課のメンバーは、後の京セラ創業期を支える人材となります。
つまり、京セラはまったくのゼロから突然生まれた企業ではありません。
松風工業で蓄積された技術、開発経験、そして一緒に仕事をしてきた仲間が、その出発点になっていました。
【京セラの創業理由と経緯】松風工業から独立した1959年の決断
京セラの創業を語るうえで欠かせないのが、稲盛和夫が松風工業を退職した1958年の出来事です。
この独立は、単に会社を辞めて自分の事業を始めたという話ではありません。技術者としての信念と、自分の考える仕事の進め方を実現するための決断でした。
1958年、上司との技術開発方針の対立1958年春、稲盛は松風工業の特磁課主任に就任しました。
当時、稲盛が担当していたのはセラミック真空管の開発です。製品化できれば事業の大きな柱になると期待されていました。
しかし、開発は難航します。
その最中、新しく外部から就任した技術部長から、稲盛は開発から手を引くように告げられました。
稲盛和夫オフィシャルサイトの公式アーカイブには、この出来事が詳しく記録されています。
稲盛は、自分の技術者としての可能性を十分に理解してもらえない環境では、目指す研究を実現できないと考え、退職を決意しました。
会社側の慰留も断り、1958年12月末に松風工業を退職しています。
元上司や関係者の支援を受けて独立を決意松風工業を辞めた後、稲盛は新会社の設立を決意します。
その際に支援したのが、松風工業時代の元上司である青山政次と、その友人の西枝一江、交川有らです。
稲盛は技術者としての経験を生かし、ファインセラミックスを専門に扱う会社を設立する道を選びました。
創業に必要だったのは、技術だけではありません。
工場設備、資金、顧客からの信用、そして一緒に働く仲間が必要でした。
そのため、独立は稲盛一人の力だけで実現したものではなく、出資者や創業に参加した社員たちの協力によって成り立ったものです。
1959年4月1日、京都セラミック株式会社が誕生1959年4月1日、京都市中京区に京都セラミック株式会社が設立されました。
これが現在の京セラ株式会社の出発点です。
京セラの公式沿革によると、創業時の条件は次のとおりでした。
- 創業年月日:1959年4月1日
- 会社名:京都セラミック株式会社
- 資本金:300万円
- 従業員数:28名
- 事業内容:ファインセラミックスの製造
当時の会社は、資金も設備も十分ではない小さな町工場でした。
それでも、稲盛たちは自分たちの技術を信じ、ファインセラミックスの専門メーカーとして事業をスタートさせます。
創業時の社名に「京都」という地名を入れたのは、世界に通用する名前にしたいという考えがあったためです。
また、「セラミック」という言葉には、現代的で力強い響きを感じた稲盛自身の希望が反映されました。
最初の製品はブラウン管テレビ向けの絶縁部品創業当初の京セラが注力したのは、ブラウン管テレビに欠かせない絶縁部品「U字ケルシマ」の製造でした。
当時、この部品は輸入品に頼っており、国内メーカーには国産化への期待がありました。
創業間もない京セラは、十分な設備も人員も持たない状況で、この製品の製造技術を確立しようと挑戦します。
京セラ公式の歴史資料によれば、苦労の末に製造技術を確立し、最終的には月産20万本の生産を実現しました。
この出来事が示しているのは、京セラの成長が単なる経営理念だけで実現したわけではないということです。
顧客の課題を見つけ、自社の技術で解決し、納期と品質を守る。その積み重ねが企業としての信用を生み出しました。
【京セラ・KDDI・JALの功績】稲盛和夫の経歴を年表で整理
稲盛和夫の功績は京セラの創業だけにとどまりません。
1980年代には通信事業に参入し、2000年代にはKDDIの発足に関わりました。さらに2010年には、日本航空の再建を担う会長に就任しています。
ここでは、主な出来事を年代順に整理します。
| 年代 | 出来事・役職 | 主な意味・功績 |
|---|---|---|
| 1932年 | 鹿児島市に誕生 | 稲盛和夫の生涯が始まる |
| 1955年 | 鹿児島大学卒業・松風工業入社 | セラミックスの研究開発に従事 |
| 1958年 | 松風工業を退職 | 独立して新会社を設立する決意 |
| 1959年 | 京都セラミック株式会社を創業 | 資本金300万円・従業員28名で出発 |
| 1961年 | 経営理念の形成 | 若手社員との話し合いを契機に経営の目的を明確化 |
| 1966年 | 代表取締役社長に就任 | 京セラの経営トップに就く |
| 1967年 | 経営理念を正式制定 | 全従業員の幸福と社会への貢献を掲げる |
| 1984年 | 第二電電を設立 | 通信事業の自由化に対応 |
| 2000年 | DDI・KDD・IDOが合併 | 現在のKDDIにつながる企業体制が誕生 |
| 2010年 | 日本航空会長に就任 | 経営破綻後の再建に取り組む |
| 2012年 | 日本航空が再上場 | 経営再建の大きな節目を迎える |
| 2022年 | 8月24日に逝去 | 90年の生涯を終える |
| 2026年 | 京セラの新経営体制 | 4月から作島史朗が代表取締役社長に就任 |
稲盛は1966年に京都セラミック株式会社の代表取締役社長に就任しました。
その後、事業の拡大とともにファインセラミックスの技術開発を進め、電子部品や半導体関連の分野へと事業を広げていきます。
1971年には大阪証券取引所第二部などに株式を上場しました。
1997年には京セラの取締役名誉会長に就任し、2005年からは名誉会長となっています。
京セラの成長を支えたのは、技術開発と市場開拓を両輪とする経営でした。
創業当初のテレビ向け部品から半導体関連部品へと技術を応用し、専門メーカーとしての競争力を高めたことが、その後の多角化につながっています。
第二電電の設立とKDDI誕生への貢献稲盛のもう一つの大きな功績が、通信事業への参入です。
1984年6月、稲盛は第二電電企画株式会社を設立しました。
当時、日本の通信市場は自由化へ向かう転換期にありました。通信サービスの選択肢を増やし、競争を促進することは、産業全体にとって大きな意味を持っていました。
第二電電はその後、第二電電株式会社(DDI)となり、通信事業を展開していきます。
2000年10月には、DDI、KDD、IDOの3社が合併して株式会社ディーディーアイが発足しました。
2001年4月には商号がKDDI株式会社に変更されています。
ここで重要なのは、稲盛が現在のKDDIという企業を単独で設立したという説明は正確ではないことです。
稲盛が創業したのは第二電電であり、現在のKDDIは複数の通信会社の統合によって誕生しました。
その企業統合に至るまでの重要な役割を果たした人物の一人が稲盛だったのです。
日本航空(JAL)の経営再建2010年2月1日、稲盛は政府の要請を受け、日本航空の会長に就任しました。
当時のJALは経営危機に陥り、会社更生法の適用を申請していました。
航空会社の経営には、安全運航、顧客サービス、運航ネットワーク、人員配置、設備投資など、製造業とは異なる複雑な課題があります。
稲盛は航空業界での経験がほとんどない状態から再建に取り組みました。
再建にあたって重視したのが、社員の意識改革と部門別採算制度です。
京セラで実践してきたアメーバ経営の考え方を取り入れ、現場の社員が自分たちの仕事と会社全体の収益との関係を理解できるようにしました。
2012年9月19日、日本航空は東京証券取引所第一部への再上場を果たします。
会長就任から約2年8カ月という期間での再上場でした。
ただし、この再建は稲盛一人の功績ではありません。社員の努力、金融機関や関係機関の支援、事業再生に関わった多くの人々の協力があって実現したものです。
JALの2013年の公式報告書でも、経営理念と部門別採算制度を組み合わせた改革が再建の柱として説明されています。
【稲盛和夫の経営理念と哲学】アメーバ経営が生まれた理由
稲盛和夫が経営者として高く評価される理由の一つは、独自の経営哲学を確立したことです。
その中心にあるのが、従業員の幸福を追求する経営理念と、組織を小集団に分けて運営するアメーバ経営です。
京セラの経営理念は従業員の幸福から始まった京セラの経営理念は、次の言葉で表されています。
全従業員の物心両面の幸福を追求すると同時に、人類、社会の進歩発展に貢献すること。
この理念が形成されるきっかけとなったのは、創業から間もない1961年の出来事でした。
若手社員たちが、将来にわたる昇給や賞与などの待遇を保証してほしいと稲盛に求めたのです。
創業当初の稲盛は、会社を成長させることや技術を世に認めさせることに力を注いでいました。
しかし、社員との話し合いを通じて、会社経営の目的は経営者自身の成功だけではないと考えるようになります。
社員とその家族の生活を守り、働く人々の幸福を実現することも企業の重要な責任であると認識したのです。
この考え方は1967年2月に正式な経営理念として制定されました。
現在も京セラの公式サイトに掲載されている経営理念の根幹となっています。
アメーバ経営とは何か?アメーバ経営とは、会社全体を小さな組織単位に分割し、それぞれを独立採算で運営する経営管理手法です。
稲盛が京セラの経営実践を通じて考案しました。
一般的な大企業では、経営者が会社全体の数字を管理し、現場の社員は与えられた業務を遂行するという構造になりがちです。
アメーバ経営では、各小集団にリーダーを置き、組織ごとの収支や目標を明確にします。
主な特徴は次のとおりです。
1.組織を小集団に分ける
大きな組織を小さな単位に分け、各グループが自分たちの仕事の成果を把握できるようにします。
2.独立採算で運営する
各組織の売上や経費を明確にし、収益性を把握します。
3.リーダーを育成する
小集団のリーダーに経営計画の立案や実行を任せ、経営者意識を育てます。
4.全員参加型の経営を目指す
一部の経営幹部だけでなく、社員一人ひとりが経営に参加する仕組みをつくります。
京セラの公式説明でも、アメーバ経営は組織を小集団に分け、市場に直結した独立採算制を採用することで、全員参加経営を実現する手法とされています。
アメーバ経営のメリットと注意点アメーバ経営の強みは、組織の中で誰が何を担当し、どのような成果を出しているのかを把握しやすい点です。
一方で、どの企業にもそのまま導入できる万能な仕組みではありません。
| 観点 | メリット | 注意点 |
|---|---|---|
| 収益管理 | 部門ごとの採算が明確になる | 数字の管理負担が増える |
| 人材育成 | リーダーの経営意識を高められる | リーダーの能力が必要 |
| 組織運営 | 現場の判断が迅速になる | 部門間の連携が必要 |
| 社員参加 | 経営への当事者意識が高まる | 目的や評価基準の共有が必要 |
| 業績管理 | 問題のある部門を把握しやすい | 部門最適が全社最適と一致するとは限らない |
特に重要なのは、部門ごとの利益だけを追求しないことです。
各組織が独立して収益を上げる仕組みを持っていても、会社全体の目標と一致していなければ、組織間の対立や非効率が発生する可能性があります。
そのため、経営理念の共有と組織間の協力が欠かせません。
稲盛がアメーバ経営と人間としての正しさを重視する経営哲学を組み合わせたのは、数字だけでは企業を健全に運営できないと考えていたからです。
「京セラフィロソフィ」と「敬天愛人」稲盛の経営思想を理解するうえで、もう一つ重要なのが京セラフィロソフィです。
これは、仕事に対する姿勢や判断の基準、人間としてのあり方などを体系化したものです。
京セラの社是には「敬天愛人」が掲げられています。
天を敬い、人を愛するという意味を持つ言葉であり、公明正大で謙虚な心を大切にする考え方が示されています。
稲盛の哲学は、利益を上げるためのテクニックだけではありません。
何のために会社を経営するのか、社員とどのように向き合うのか、社会にどのような価値を提供するのかという、企業活動の根本的な問いに向き合うものです。
【2026年最新】稲盛和夫の現在と京セラの歴代経営体制
稲盛和夫について検索すると、「現在は何をしているのか」「京セラの社長は誰なのか」という疑問も多く見られます。
まず確認しておきたいのは、稲盛はすでに亡くなっているという事実です。
稲盛和夫は2022年8月24日に90歳で逝去京セラと公益財団法人稲盛財団の公式発表によると、稲盛和夫は2022年8月24日、京都市内の自宅で老衰のため永眠しました。
享年90歳でした。
生前は京セラの創業者・名誉会長であり、KDDIの最高顧問、日本航空の名誉顧問などを務めていました。
また、1984年には公益財団法人稲盛財団を設立し、国際賞である京都賞を創設しています。
加えて、1983年からは経営者のための勉強会「盛和塾」の塾長を務めました。盛和塾は国内外に広がり、2019年末に閉塾しています。
その活動は企業経営だけでなく、後進の育成や社会貢献にも及んでいました。
2026年現在の京セラ社長は作島史朗稲盛の逝去後も、京セラは企業として事業を継続しています。
2026年11月現在、京セラの公式役員一覧で確認できる経営体制は次のとおりです。
- 代表取締役会長:山口悟郎
- 代表取締役副会長:伊奈憲彦
- 代表取締役社長兼執行役員社長:作島史朗
作島史朗は1990年に京セラへ入社し、電子部品事業本部長などを歴任しました。
2025年には経営改革プロジェクトを担当し、2026年4月1日付で代表取締役社長兼執行役員社長、最高経営責任者に就任しています。
山口悟郎は2013年に代表取締役社長に就任し、2017年から代表取締役会長を務めています。
このように、創業者から次の経営者へと企業の舵取りが引き継がれてきました。
歴代社長と創業者の功績をどう理解するべきか京セラの経営史を理解する際には、稲盛和夫の功績と、その後の歴代経営陣の役割を分けて考えることが大切です。
稲盛の最大の功績は、1959年に創業した会社の技術的な基盤と経営理念を築いたことです。
その後の経営陣は、その基盤を引き継ぎながら、事業の多角化や組織運営、経営改革などを担ってきました。
2026年の作島体制では、京セラの中核技術であるセラミックスを生かした部品事業の拡大や、高収益・高成長企業への回帰が重要な経営課題として示されています。
創業者の思想を守るだけでなく、時代の変化に合わせて事業を進化させることが、現在の経営陣に求められている役割です。
稲盛和夫の経営哲学は現在も受け継がれている稲盛が亡くなったからといって、その経営思想まで失われたわけではありません。
京セラは現在も経営理念や社是を公式に掲げています。
また、稲盛財団による京都賞の運営や、稲盛の著書・経営哲学を学ぶ活動などを通じて、その思想は企業の枠を超えて受け継がれています。
特に「全従業員の物心両面の幸福を追求する」という考え方は、短期的な利益だけを追い求めない企業経営のあり方を示すものです。
2026年の京セラを理解するうえでも、創業者が築いた理念と、現在の経営体制が進める改革の両方を見る必要があります。
【プロの結論】稲盛和夫が京セラに残した本当の功績とは?
稲盛和夫の功績を振り返ると、京セラの創業、第二電電の設立、JAL再建という異なる分野で成果を残したことが分かります。
一見すると、それぞれまったく違う事業に見えます。
しかし、共通しているのは、技術や資金だけでなく、人と組織の力を最大限に引き出そうとした姿勢です。
京セラでは、技術者として製品を生み出しながら、社員が安心して働ける経営理念を構築しました。
第二電電では、通信市場の自由化という変化を捉え、新しい競争環境に挑戦しました。
JALでは、社員の意識改革と部門別採算制度を取り入れ、組織全体の経営意識を変えることに取り組みました。
この3つの事業に共通するのは、経営を一部の経営者だけの仕事にせず、現場で働く人々も当事者として参加する仕組みを重視した点です。
稲盛和夫の経営哲学から学べる3つのこと1.事業の目的を明確にする
利益を出すことは企業にとって不可欠ですが、それだけでは長期的に社員の共感を得ることは難しくなります。
企業が何のために存在し、誰に価値を提供するのかを明確にすることが、組織の一体感につながります。
2.現場に経営意識を持たせる
アメーバ経営が示すように、社員が自分の仕事と会社の業績の関係を理解できれば、日々の業務に対する責任感も変わります。
ただし、数字だけで人を評価するのではなく、組織全体の目的を共有することが前提です。
3.技術と人間性を両立させる
京セラの創業は、優れたセラミックス技術が出発点でした。
しかし、会社を成長させる過程では、人材育成や信頼関係、経営理念の共有が不可欠でした。
技術力と人間性の両方を重視する姿勢こそ、稲盛の経営哲学を理解するうえで要点です。
稲盛和夫の経営手法が向いている企業・注意したい企業アメーバ経営や京セラフィロソフィは、すべての会社が同じ形で導入すれば成功するものではありません。
特に、部門ごとの業務内容や成果を数値で把握しやすく、現場に一定の裁量を持たせられる企業では、導入効果を検討しやすいでしょう。
一方、部門間の連携が極めて重要な企業や、短期的な利益だけでは成果を測れない研究開発型の組織では、制度設計に工夫が必要です。
重要なのは、アメーバ経営という名称や制度だけを取り入れることではありません。
その背景にある「全員参加経営」という目的を理解し、自社の事業構造に合わせて仕組みを構築することです。
【京セラの創業者・稲盛和夫】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:京セラの創業者は誰ですか?
A1:京セラの創業者は稲盛和夫です。1959年4月1日に京都セラミック株式会社を設立しました。現在の京セラ株式会社は、この会社を起源としています。
Q2:京セラは創業時、資本金300万円で従業員は何人でしたか?
A2:創業時の資本金は300万円、従業員は28名でした。京都市中京区に設立された小規模なファインセラミックス専門メーカーとして事業を開始しています。
Q3:稲盛和夫はどこの大学を卒業しましたか?
A3:鹿児島大学工学部を卒業しています。専攻は応用化学で、1955年3月に卒業後、京都の松風工業株式会社に入社しました。
Q4:稲盛和夫が松風工業を辞めた理由は何ですか?
A4:セラミック真空管の開発をめぐり、新しく就任した上司と技術開発方針で対立したことが直接のきっかけです。技術者としての夢を実現するため、1958年12月末に退職しました。
Q5:稲盛和夫はKDDIも創業したのですか?
A5:稲盛は1984年に第二電電企画株式会社を設立しました。その後、第二電電はDDIとなり、2000年にKDD・IDOと合併して現在のKDDIにつながる企業が発足しました。KDDIは複数の通信会社の統合によって誕生しています。
Q6:稲盛和夫は現在も存命ですか?
A6:いいえ。稲盛和夫は2022年8月24日に京都市内の自宅で老衰のため亡くなりました。享年90歳です。
Q7:2026年現在、京セラの社長は誰ですか?
A7:2026年4月1日から作島史朗が代表取締役社長兼執行役員社長を務めています。代表取締役会長は山口悟郎です。
京セラの創業者である稲盛和夫は、1959年4月1日に資本金300万円、従業員28名で京都セラミック株式会社を設立しました。
その出発点には、松風工業で培ったセラミックスの技術と、技術者として自分の可能性を追求したいという思いがありました。
創業後は、ファインセラミックスを中心に事業を拡大し、独自の経営理念やアメーバ経営を確立。さらに1984年の第二電電設立、2010年からのJAL再建など、通信・航空分野にも大きな影響を与えました。
2022年8月24日に90歳で逝去した稲盛ですが、その経営哲学は現在も京セラや稲盛財団などを通じて受け継がれています。
2026年11月現在、京セラでは作島史朗が代表取締役社長を務め、新しい経営体制のもとで事業改革を進めています。
稲盛和夫の生涯から読み取れるのは、企業の成長を支えるものは資金や技術だけではないということです。
技術を磨き、人を大切にし、社会に貢献する目的を持つこと。
資本金300万円の小さな町工場から始まった京セラの歴史は、その考え方を具体的に示す企業経営の事例として、2026年の現在も学ぶ価値を持っています。
主な事実確認に使用した資料
- 京セラ公式サイト「稲盛和夫プロフィール・年譜・創業エピソード」
- 京セラ公式サイト「社是・経営理念・経営思想」
- 京セラ公式サイト「アメーバ経営」
- 公益財団法人稲盛財団「創立者 稲盛和夫」
- KDDI公式サイト「会社沿革・IR FAQ」
- 日本航空「JAL REPORT 2013」
- 京セラ公式サイト「2026年役員一覧」