二人が顔を合わせたとされるのは、1946年(昭和21年)12月14日の夜。場所は、東京の練馬にあった高原紀一の下宿先である。
当時の二人の立場は大きく異なっていた。
- 太宰治:37歳。 戦後の文壇で人気を集めていた作家。前年から続く戦時下の混乱を経て、1946年11月に青森から東京へ戻ったばかりだった。
- 三島由紀夫:21歳。 東京帝国大学法学部の学生。『花ざかりの森』を刊行し、川端康成に認められて作品を発表していたものの、まだ文壇で広く知られる前の若手作家だった。
会合を企画したのは、東京府立第五中学校(現在の東京都立小石川中等教育学校につながる学校)の出身者を中心とする文学青年たちだった。
太宰だけでなく、評論家の亀井勝一郎も招かれている。三島を会合に誘ったのは、後に劇作家として活躍する矢代静一だった。
つまり、二人が対決するために設けられた文学討論会ではない。若い文学仲間が著名な作家たちを招いた酒席だったのである。
会合の日付を確定させた「会計日記」興味深いのは、長年曖昧だった開催日が、三島自身の日記によって明らかになったことだ。
2005年刊行の新潮社『決定版 三島由紀夫全集 補巻』には、三島の「会計日記」が収録されている。
1946年12月14日の記録には、高原のところで酒の会があり、太宰と亀井が来たこと、そして夜12時に帰宅したことが記されている。
この記録は、後年の記憶や自伝的な文章とは性質が異なる。当日の行動を記した同時代資料であり、会合の日付を判断するうえで重要な根拠になる。
以前は1947年1月26日とする説や、1947年秋ごろとする記述もあった。しかし、会計日記によって1946年12月14日という日付が有力になった。
2026年は対面から80年の節目2026年12月14日には、二人の対面から80年を迎える。
太宰は1948年6月13日に亡くなり、三島は1970年11月25日に亡くなった。直接交流できた時間は極めて短く、その後の二人の文学的な関係は、三島の評論、エッセー、書簡、そして関係者の回想を通じて形成されていった。
この点を押さえると、二人を長年にわたって対立したライバルのように扱うことには無理がある。実際には、短い接点を持った異なる世代の作家だった。
【証言を徹底比較】「僕は太宰さんの文学は嫌いなんです」は本当にあったのか

ここが、太宰と三島をめぐる逸話で最も興味深い部分だ。
三島の『私の遍歴時代』には、太宰に対して嫌悪を伝えた場面が詳しく描かれている。
三島によれば、太宰は一瞬驚いた後、亀井勝一郎のほうを向き、三島がここに来ていること自体を理由に、実は好きなのだろうという趣旨の返答をした。
しかし、同席者の記憶は必ずしも一致しない。
三島由紀夫自身の回想1963年に東京新聞夕刊で連載された『私の遍歴時代』では、三島は当時の自分の心理を詳しく振り返っている。
太宰の文学を嫌っていることを本人に伝えなければ、自分の文学的な立場を見失うという強い意識があったという。
また、三島はその場での自分の口調を、少し笑いながら要領を得ないものだったと回想している。
この記述が、現在広く知られている「嫌いです」発言の主要な出典となっている。
矢代静一の回想一方、三島を会合に誘った矢代静一の証言は異なる。
矢代は後年の回想で、三島と太宰の有名なやり取りを自分は聞き逃したと述べている。
加えて、同席した文学青年たちに尋ねても、三島の発言を聞いたという人はいなかったという。
矢代は、三島が後年になって自分の文学的立場を説明するため、実際の出来事を物語として再構成した可能性にも言及している。
ただし、矢代自身も当時の酒席についてすべてを記憶していたわけではない。数十年後の回想であることも考慮する必要がある。
中村稔の回想詩人・中村稔の証言は、さらに別の角度を示す。
中村は1976年の「三島由紀夫氏の思い出」で、三島が太宰の文学を認めない趣旨の発言をしたことを覚えていると記した。
ただし、太宰の反応は三島の自伝とは異なる。
中村の回想では、太宰は三島のことを知らず、周囲から三島が小説「煙草」を発表した作家だと紹介されると、「そんな小説家は知らねえ」という趣旨の返答をしたという。
また、中村は三島が会合の終了まで席にいたことも記している。
この点は、三島が『私の遍歴時代』で気まずくなって早々に帰ったと書いていることと食い違う。
野原一夫の回想新潮社の編集者として太宰と接点があった野原一夫は、1980年の『回想 太宰治』で、三島の発言を聞いたと記している。
野原の記憶では、三島は笑いながらではなく、無表情に太宰を見つめて発言した。
太宰の返答も、三島の自伝にあるものとは異なる。嫌いなら会いに来なければいい、という趣旨だったと回想している。
野原の証言は、三島の発言そのものを裏付ける重要な材料だが、太宰の返答まで三島の自伝と一致しているわけではない。
高原紀一の回想会場を提供した高原紀一も、1971年に「三島由紀夫の知られざる秘密―太宰治との一夜―」という回想を発表している。
高原は三島と太宰の間でそのようなやり取りがあった可能性には触れているものの、発言を明確に記憶していたわけではない。
むしろ高原の記憶で印象的なのは、森鴎外についての話題から三島が持論を展開し、太宰がそれに正面から応じなかったことで、場の空気が白けたという部分である。
証言と史料の対照表| 資料・証言者 | 発表・記録時期 | 発言・会合の記憶 |
|---|---|---|
| 三島由紀夫『私の遍歴時代』 | 1963年 | 「嫌いです」発言と太宰の「好きなんだよな」という返答を記述 |
| 矢代静一 | 1971年・1996年 | 有名な会話を聞いておらず、後年は創作の可能性にも言及 |
| 高原紀一 | 1971年 | 正確な発言は記憶していない。森鴎外をめぐる会話を重視 |
| 中村稔 | 1976年 | 文学を認めない趣旨の発言を記憶。太宰の返答は別の内容 |
| 野原一夫 | 1980年 | 三島の発言を聞いたと証言。太宰の返答も別の内容 |
| 三島の会計日記 | 1946年12月14日 | 高原宅の酒席に太宰と亀井が来たことを記録 |
ここから見えてくるのは、次の3点だ。
1. 会合そのものは実在した。 三島の同時代の日記によって開催日が確認できる。
2. 三島が太宰の文学を批判したという趣旨の証言は複数ある。 中村と野原の回想は、三島の発言を一定程度支持している。
3. 有名な会話の正確な再現には疑問が残る。 太宰の返答、三島の口調、退席のタイミングについて、資料間に違いがある。
したがって、「嫌いです」という発言が完全な創作だったと断定することも、三島が書いた会話のすべてをそのまま史実とみなすことも適切ではない。
最も慎重な評価は、発言の趣旨には裏付けがあるものの、広く知られる会話の細部は確定していない、というものだ。
【三島由紀夫はなぜ太宰治を嫌った?】『小説家の休暇』に見る本当の理由
三島の太宰嫌いは、一度の酒席で生まれた感情的な反発だけでは説明できない。
重要なのは、三島が太宰の文学に対して、かなり明確な美学と倫理観を持っていたことだ。
1950年の新聞インタビューで明らかになった嫌悪三島は1950年2月4日付の朝日新聞夕刊のインタビューで、太宰を嫌いだと明言している。
その理由として挙げたのが「滅亡的センチメンタリズム」という表現だった。
ここでの批判は、単に文章が好みではないという話ではない。太宰文学に漂う自己憐憫や、破滅を美化するような姿勢に対する反発だった。
『小説家の休暇』で展開された徹底批判三島由紀夫/1955年刊行・日記形式の評論
三島の創作観や人間観を知るうえで重要な一冊。太宰への批判も収録されている。
新潮社の文庫版は1982年発売。
1955年刊行の『小説家の休暇』には、太宰の容貌、振る舞い、自己表現のあり方に対する厳しい批判が記されている。
三島が特に問題視したのは、作家自身の弱点をそのまま文学的な強みに転換しようとする姿勢だった。
彼にとって、弱さを作品に描くこと自体が問題なのではない。生活のなかで向き合うべき問題を、芸術によって正当化してしまうことが許せなかったのである。
三島の批判を整理すると、主に次の3点に集約できる。
- 自己戯画化への反発: 自分の弱さや欠点を演じ、それを文学的な魅力として提示することへの嫌悪。
- 意志と規律の重視: 人間の弱さを受け入れるだけでなく、意志や生活習慣によって克服しようとする姿勢を重視した。
- 芸術と生活の関係: 生活上の問題を芸術の力で美化することへの警戒。
三島にとって太宰は、文学的な才能を持ちながら、自分が理想とする作家像とは正反対の存在だった。
実は三島自身も太宰との類似性を認めていたここで見逃せないのが、1964年5月29日のNHKラジオ番組での発言だ。
高校生から太宰批判について質問された三島は、自分と太宰には似た部分があるという趣旨の回答をしている。
加えて、太宰を好きになってその文学に溺れれば、自分も太宰のようになってしまうのではないかという恐怖があるため、意識的に違う立場を保つ必要があったと説明した。
これは、三島の太宰嫌いを理解するうえで非常に重要な証言である。
つまり三島は、太宰を単に才能のない作家として切り捨てていたわけではない。
むしろ、自分の内側にも存在する危険な部分を太宰の文学に見いだし、それを拒絶していた可能性がある。
1968年の大藪春彦との対談でも、三島は太宰に才能があることを認めながら、青年の弱点を甘やかす点が嫌いだという趣旨の発言をしている。
才能への評価と、人間性や文学的態度への嫌悪は、三島のなかで両立していたのである。
【『斜陽』の評価はどうだった?】三島由紀夫の川端康成宛書簡が示す意外な事実
太宰治/1947年『新潮』連載
没落する旧華族の家庭を背景に、戦後社会の価値観の転換、家族の崩壊、生きることへの葛藤を描いた代表作。
三島と太宰の関係を理解するうえで、非常に重要な資料がある。
それが、1947年10月8日付の三島由紀夫から川端康成への書簡だ。
三島はこの手紙で、太宰の『斜陽』第3回を読んだ感想を記している。
作品に深い感銘を受けたことを述べながら、完成の一歩手前で崩れてしまいそうな不安が残っているとも指摘した。
つまり、三島は『斜陽』を単純に否定していたわけではない。作品の芸術的な可能性を評価しつつ、完成度について厳しい注文をつけていた。
この書簡は、新潮社刊『決定版 三島由紀夫全集』第38巻に収録された川端康成宛書簡でも確認できる。国立国会図書館のレファレンス協同データベースにも、同全集の該当ページが記録されている。
会合と『斜陽』の時系列には重大な食い違いがあるここで、三島の『私の遍歴時代』における記述に注目したい。
三島は太宰との会合について、『斜陽』の連載が終わったころの秋だったのではないかと回想している。
しかし、これは日付と一致しない。
『斜陽』の連載は1947年7月から10月まで。一方、会合は1946年12月14日である。
つまり、二人が会ったのは『斜陽』の連載開始より約7か月も前だった。
この違いは重要だ。三島の回想では、太宰の人気作『斜陽』に対する批判と、本人との対面が一連の出来事のように描かれている。しかし、実際の時系列は異なる。
『斜陽』への評価は一貫して否定的だったのか資料を時系列に並べると、三島の太宰評価は次のように整理できる。
- 1946年12月: 太宰と対面。会話の詳細については証言が分かれる。
- 1947年10月: 川端宛書簡で『斜陽』に感銘を受けたことを伝えつつ、芸術的完成度に疑問を示す。
- 1950年: 新聞インタビューで太宰を強く批判。
- 1955年: 『小説家の休暇』で太宰の文学観と人間性を厳しく論じる。
- 1963年: 『私の遍歴時代』で対面の逸話を改めて描き、太宰への批判を展開する。
この経過から分かるのは、三島の太宰観が単純な好き嫌いではなかったということだ。
『斜陽』の芸術的可能性を認めることと、太宰の生き方や文学的態度に反発することは、三島にとって矛盾しなかったのである。
【文学観を徹底比較】太宰治と三島由紀夫は何が違ったのか
1909〜1948年
人間の弱さ、孤独、自己矛盾、社会からの疎外を文学の中心に据えた。
1925〜1970年
美、形式、意志、身体、芸術的完成度を強く意識した。
二人の文学観を比較する際には、単に太宰は弱さ、三島は強さを描いたと説明するだけでは足りない。
作品の構造や、作家が自分自身をどのように表現したかまで見る必要がある。
1. 太宰治は人間の弱さを文学の中心に置いた太宰の作品では、主人公が社会の規範や他人との関係にうまく適応できず、自分自身の矛盾を抱えながら生きている姿が繰り返し描かれる。
代表作『人間失格』では、大庭葉蔵の手記という形式を採用し、自己認識と他者から見た人物像のずれを描いた。
重要なのは、太宰の作品をそのまま作者本人の告白として読むべきではないという点だ。
『人間失格』には、主人公の手記を読む「私」や、作品の外側から人物を語る枠組みが存在する。作者と主人公の距離を意識した構造も備わっている。
太宰は自分をさらけ出しているように見せながら、文学的な仕掛けによって読者との距離を調整していた。
2. 三島由紀夫は美と形式によって人間の矛盾を描いた一方の三島は、人間の内面的な苦悩を、構成や象徴、肉体的なイメージを通じて表現することに力を注いだ。
『金閣寺』では、美に執着する主人公と、圧倒的な美の象徴である金閣との関係が物語の中心となる。
『豊饒の海』では、輪廻や記憶、存在の不確かさを壮大な構成のなかで描いた。
三島にとって芸術とは、単なる感情の吐露ではなく、厳密な形式を与えられた表現でもあった。
『小説家の休暇』における太宰批判も、こうした創作観と結びついている。
3. 実は二人には共通する部分もあった立正大学リポジトリで公開されている菅原洋一の論考「三島由紀夫と太宰治」では、両者の作品を比較し、表面的な対照の奥にある共通性にも目を向けている。
例えば、二人とも日常生活の価値観に対して懐疑的な視線を持っていた。
また、自己の存在や生きる意味を問い続けたという点でも共通している。
ただし、その問題に対する表現方法は異なる。
太宰は自己の弱さや矛盾を作品の表面に現れさせ、三島は形式や美、意志によってそれを制御しようとした。
この対比は、二人の文学を理解するための有効な手がかりになる。
二人の文学観を一言で整理すると| 比較項目 | 太宰治 | 三島由紀夫 |
|---|---|---|
| 主な関心 | 孤独、弱さ、自己矛盾 | 美、意志、形式、肉体 |
| 人間の描き方 | 不完全さや矛盾を露呈させる | 矛盾を美的構成のなかに置く |
| 文学の方向性 | 自己と他者の距離を問い続ける | 芸術的完成と表現の統制を追求する |
| 自己表現 | 告白的な語りと虚構の併用 | 仮面や象徴、構成を重視 |
| 代表作 | 『斜陽』『人間失格』 | 『仮面の告白』『金閣寺』『豊饒の海』 |
| 太宰と三島の関係 | 三島から強い批判を受けた | 太宰の才能を認めつつ、その文学観に反発 |
この表は両者の作品傾向を整理したものであり、それぞれの全作品を一つの特徴だけで説明するものではない。
特に『人間失格』の構造や『豊饒の海』の存在論的な主題を考えると、二人の文学には、表面的な対立だけでは捉えられない深さがある。
【プロの結論】太宰治と三島由紀夫の関係を読み解く3つのポイント
ここまでの史料を整理すると、二人の関係について押さえておくべき要点は3つある。
第一に、対面そのものと有名な会話は分けて考えるべきだ。
1946年12月14日の会合は、三島の会計日記によって裏付けられる。一方、「嫌いです」という言葉の正確な状況や太宰の返答には、同席者の記憶の違いが残る。
第二に、三島の太宰嫌いは文学上の自己認識と深く関係していた。
三島は太宰の才能を認めていた。にもかかわらず、太宰の文学に反発した。その背景には、自分のなかにも太宰と似た部分があるという認識と、そこに飲み込まれることへの恐怖があった。
第三に、『斜陽』への評価は単純な否定ではなかった。
1947年の川端康成宛書簡は、三島が太宰の作品を高く評価する部分を持っていたことを示している。作品への評価と作家の生き方への批判を分けて考えることが重要だ。
史料を読むときの判断基準このテーマをさらに調べたい読者は、次の順序で資料を確認すると理解しやすい。
1. 同時代資料を優先する。 三島の会計日記や1947年の川端宛書簡など、出来事に近い時期の資料を読む。
2. 自伝と第三者の回想を区別する。 『私の遍歴時代』は三島自身の記憶と解釈を含む文章である。
3. 異なる証言を照合する。 矢代静一、中村稔、野原一夫、高原紀一の回想を比較する。
4. 作品への評価と人間への評価を分ける。 三島の太宰批判を、単なる感情的な嫌悪として片付けない。
この4つを意識するだけでも、文学史上の有名な逸話を、伝説と史実に分けて読み解けるようになる。
【太宰治と三島由紀の夫】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:太宰治と三島由紀夫が会ったのはいつですか?
1946年(昭和21年)12月14日です。東京の練馬にあった高原紀一の下宿先で開かれた酒席で、太宰、三島、亀井勝一郎らが同席しました。三島の会計日記が日付を裏付けています。
Q2:三島由紀夫の「僕は太宰さんの文学は嫌いなんです」は本当の発言ですか?
三島自身が『私の遍歴時代』に記しており、野原一夫も発言を聞いたと回想しています。一方、矢代静一は聞いておらず、中村稔の記憶も会話の細部では異なります。発言の趣旨には裏付けがありますが、正確な会話の再現には議論の余地があります。
Q3:太宰治は三島由紀夫を嫌っていたのでしょうか?
太宰が三島に対してどのような感情を持っていたかを確定できる資料は限られています。三島の回想と同席者の記憶では、太宰は三島の批判に戸惑ったり、反発したりしたとされていますが、長期的な対立関係があったわけではありません。
Q4:三島由紀夫は太宰治の『斜陽』を評価していたのですか?
はい。1947年10月8日付の川端康成宛書簡では、『斜陽』に感銘を受けたことを伝えています。ただし、芸術的な完成度については厳しい見方も示していました。
Q5:三島由紀夫が太宰治を嫌った理由は何ですか?
太宰の自己戯画化や、弱さを文学的な魅力に転換する姿勢に反発していたためです。また、1964年のNHKラジオ番組では、自分にも太宰と似た部分があると認め、太宰に傾倒することへの恐怖を語っています。
太宰治と三島由紀夫の接点は、1946年12月14日の酒席にさかのぼる。太宰37歳、三島21歳。二人が直接顔を合わせたことは、三島の会計日記や複数の関係者の回想によって裏付けられている。
一方、「僕は太宰さんの文学は嫌いなんです」という発言や、太宰の有名な返答については、三島の自伝、矢代静一、中村稔、野原一夫、高原紀一の記憶に食い違いがある。会話を一字一句そのまま再現できるほど、証言は一致していない。
加えて、三島の川端康成宛書簡を読むと、太宰の『斜陽』を評価していたことも分かる。三島の太宰嫌いは、作品の才能を認めないという単純な批判ではなかった。
むしろ、自分にも似た部分を持つと認めながら、太宰とは異なる文学の道を選ぼうとした三島の葛藤が、二人の関係を理解する鍵になる。
2026年12月14日、二人が対面した日から80年。今なお語り継がれる「嫌いです」という逸話は、単なる作家同士の口論ではない。昭和文学を代表する二人の作家が、人間の弱さ、美、芸術の完成という根本的な問題を、それぞれ異なる方向から見つめていたことを象徴する出来事なのである。