2026年、発生から106年を迎えた尼港事件(にこうじけん)。1920年、シベリア出兵のさなか、ロシア極東のニコラエフスク・ナ・アムーレで、日本軍守備隊や日本人居留民、領事館関係者らが革命派パルチザンとの武力衝突に巻き込まれ、多数の命を奪われた。捕虜となった日本人の殺害、市街地の焼失まで発生したこの事件は、日本の対ソ政策を大きく変える転機となった。
しかし、尼港事件は単純に「日本人が革命軍に虐殺された事件」とだけ説明できるものではない。日本側の外交文書とロシア側の革命期資料では、衝突の発端について異なる説明が残されている。事件を主導したトリャピーツィンの立場、当時のシベリア出兵の実態、救援が遅れた理由、そして日本軍による北樺太保障占領との関係を整理すると、事件の政治的・歴史的な意味が見えてくる。
【尼港事件とは?】1920年にニコラエフスクで起きた悲劇の全貌

尼港事件とは、1920年(大正9年)3月から5月にかけて、ロシア極東の都市ニコラエフスクで発生した日本軍守備隊・日本人居留民らに対する一連の殺害事件を指す。ニコラエフスク事件、ニコラエフスク・ナ・アムーレ事件とも呼ばれる。
「尼港」という名称は、当時の日本で使われていたニコラエフスクの略称である。現在の都市名はニコラエフスク・ナ・アムーレ(Nikolayevsk-on-Amur)で、ロシアのハバロフスク地方、アムール川河口に位置する。
当時の同市は、アムール川下流域とサハリン方面を結ぶ交通・交易上の要地だった。1917年にはサハリン州の行政中心地となり、漁業や商業の拠点としても重要な役割を担っていた。
事件の中心となったのは、同地に駐屯していた日本軍守備隊と、ロシア革命・内戦期に活動していたパルチザン部隊である。パルチザン側の指導者として知られるのが、ヤコフ・トリャピーツィン(Yakov Tryapitsyn)だ。
武力衝突によって日本軍守備隊は壊滅的な被害を受け、日本人居留民や領事館関係者も殺害された。加えて、最初の戦闘を生き延びた捕虜も後に殺害され、市街地の大部分が焼失した。
犠牲者は日本人だけではなかった尼港事件を理解する際に見落とせないのが、ニコラエフスクという都市そのものが破壊された点である。
日本人の犠牲者だけでなく、ロシア人を含む現地住民も深刻な被害を受けた。革命派の部隊が撤退する過程で市街地が破壊され、多くの住民が住居や生活基盤を失った。
そのため、事件は日本人居留民の大量殺害という側面と、ロシア極東の内戦が引き起こした地域社会の崩壊という側面を併せ持っている。
【尼港事件の原因】シベリア出兵と革命派パルチザンの対立
1918年に始まったシベリア出兵事件の背景には、1917年のロシア革命と、その後に続いたロシア内戦がある。
1917年の革命によってロシアの政治体制は大きく変わり、ボリシェヴィキを中心とする新政権と、それに反対する白軍などの勢力が各地で争った。列強諸国は革命への対応や自国民・軍事物資の保護などを理由にロシア極東へ軍隊を派遣した。
日本も1918年にシベリア出兵を開始した。当初はアメリカなどと共同歩調を取っていたが、戦局の変化に伴って日本独自の軍事的・政治的関与が拡大していく。
日本軍はウラジオストクや沿海州、アムール川流域などに展開した。現地では反革命勢力を支援する動きもあり、革命派から見れば日本軍はロシア国内の政治闘争に介入する外国軍だった。
1919年から1920年にかけて、コルチャーク政権などの反革命勢力が崩壊すると、極東地域の政治・軍事情勢はさらに不安定になった。各地ではパルチザン部隊が勢力を広げ、日本軍との緊張も高まっていった。
トリャピーツィンとは何者だったのか尼港事件を語るうえで重要な人物が、パルチザン部隊を率いたトリャピーツィンである。
トリャピーツィンは、ロシア革命・内戦期の極東で活動した急進的な革命派指導者で、アナーキスト的な思想を持つ人物としても知られる。日本側の当時の発表では、彼の部隊はしばしば「過激派」や「ボリシェヴィキ」として説明された。
ただし、トリャピーツィンの部隊とモスクワのソビエト政権を完全に同一視するのは正確ではない。現地の革命派には独自の政治的立場があり、中央政府が目指していた対日外交と、現地の強硬な対日路線には温度差が存在した。
ヤロスラブ・シュラトフによる2020年の研究論文「ロシア革命とサハリン」は、当時のソビエト中央指導部が日本との戦争回避を重視する一方、極東の現地勢力には対日強硬姿勢を主張する動きがあったことを示している。
衝突の背景にあった日本軍の駐留問題ニコラエフスクにおける対立は、単なる地域住民と外国人の争いではなかった。
日本軍の駐留は、革命派にとって外国による軍事介入の象徴だった。一方、日本側は現地の日本人居留民や領事館、軍事拠点の安全確保を重視していた。
この相互不信の中で、守備隊の武装や駐留をめぐる交渉は極めて不安定なものとなった。日本軍とパルチザン側の間には一時的な合意も存在したが、双方の政治的・軍事的な目的は一致していなかった。
2023年刊行の北海道大学出版会『日本帝国の膨張と縮小――シベリア出兵とサハリン・樺太』では、原暉之と兎内勇津流が、ニコラエフスクの社会的背景やパルチザン部隊の進出、日本軍の対応、3月の武力衝突を個別に検討している。事件を地域史と国際関係史の双方から捉える研究として重要な位置を占める。
【尼港事件の発生経緯】3月の武力衝突から5月25日の捕虜殺害まで
1920年2月から3月:パルチザン部隊の進出と武力衝突1920年2月、トリャピーツィン率いるパルチザン部隊はニコラエフスク周辺で勢力を拡大した。日本軍守備隊は厳しい状況に置かれ、武装解除や降伏をめぐる交渉が進められた。
従来の日本史の概説では、2月5日にパルチザン側が守備隊を降伏させたと説明されることがある。その後、日本側は3月12日深夜にパルチザン司令部への奇襲攻撃を試みたものの失敗し、戦闘は3月14日前後まで続いたとされる。
ただし、最初に攻撃を開始したのがどちらだったのかについては、日本側とロシア側の説明が異なる。この点は事件の真相を考えるうえで重要な論点となっている。
3月の戦闘後:日本軍と居留民の大量殺害武力衝突の結果、日本軍守備隊は壊滅的な被害を受けた。日本人居留民や領事館関係者も殺害され、現地の日本人社会は事実上崩壊した。
当時の日本側の説明では、約130人の日本人が最初の戦闘を生き延びた。しかし、その多くは負傷者や病人、高齢者、子どもなどであり、捕虜として拘束された。
日本人の犠牲者には、現地駐在の日本領事・石田虎松らも含まれていた。井竿富雄の研究によれば、軍人だけでなく民間人、外交官までが殺害されたことが、日本社会に大きな衝撃を与えた。
1920年5月25日:捕虜の殺害と市街地の焼失事件の中でも特に深刻なのが、捕虜となっていた日本人の殺害である。
米国国務省の外交文書集『Foreign Relations of the United States, 1920』に収録された1920年6月17日付の駐日米国代理公使ベルの電報には、日本外務省が発表した事件調査の内容が転載されている。
それによると、約130人の日本人が拘束され、1920年5月25日、救援に向かう日本軍の接近を前に殺害されたとされる。
パルチザン部隊はその後、市街地を焼き払い、ニコラエフスクから撤退した。日本側の調査団が現地に到着した際には、すでに大量殺害と市街地の破壊が終わっており、現場の状況を完全に調べることは困難だった。
救援が遅れた理由は何だったのか日本政府は事件の情報を把握した後、救援部隊を派遣しようとした。しかし、冬季の結氷によってアムール川方面への移動や通信が大きく制限されていた。
1920年4月25日付の米国外交文書に転載された日本外務省の発表によれば、日本軍は4月19日に艦艇の護衛を受けて北樺太方面へ出発し、22日にアレクサンドロフスク(現在のアレクサンドロフスク・サハリンスキー)へ到着した。
その後、増援と海軍部隊が派遣され、6月3日にニコラエフスクへ到着した。しかし、救援隊が到着するまでに、現地の日本人捕虜はすでに殺害されていた。
この経過から分かるのは、救援が実施されなかったわけではなく、当時の交通・通信事情と現地の軍事情勢が救援活動を大きく制約したということだ。一方で、居留民の保護体制や守備隊の配置、事前の撤収判断が適切だったのかという問題は、当時の日本国内でも議論された。
日本人犠牲者数は何人だったのか尼港事件の犠牲者数については、発表時期や集計方法によって違いがある。
1920年6月の日本外務省発表では、前年6月末時点の在留日本人統計を参考に、民間人約350人、軍人約306人が犠牲になったと推定された。合計すると656人となる。
加えて、同年7月3日の日本政府声明では、軍人、領事館関係者、日本人居留民らを合わせて約700人が殺害されたと説明された。後世の文献では730人以上とする数字も見られる。
ただし、これらは同一条件で作成された確定名簿による数字ではない。事件の直後には現地の日本人社会がほぼ壊滅し、資料の焼失や通信途絶も発生していたため、犠牲者数は推計として扱う必要がある。
【尼港事件の真相】日本外交文書とロシア側史料で異なる事件の見方
日本側の記録:パルチザンによる攻撃と大量殺害日本側の基本的な事件認識は、革命派パルチザンが日本軍守備隊を攻撃し、日本人居留民や領事館関係者を殺害したというものだった。
外務省の「日本外交文書」大正9年(1920年)第1冊下巻には、「尼港事件及樺太内必要地点ノ一時占領ニ関スル件」という独立した項目が設けられている。
ここには、事件への対応や北樺太の一時占領をめぐる外交上の記録が収録されている。日本政府が事件を単なる現地の軍事衝突ではなく、国家間の外交問題として扱ったことが分かる。
ロシア側の記録:日本軍が先に攻撃したという主張一方、ソビエト側の外交文書には異なる説明が残っている。
シュラトフの研究が参照するソ連外交政策文書によれば、1920年3月22日、ソ連の外務人民委員チチェーリンは、日本軍が赤軍司令部との協定に違反して攻撃を開始したと主張した。その一方で、事件について遺憾の意を表明し、日ソ交渉の開始を呼びかけている。
つまり、日本側はパルチザンによる攻撃を強調し、ソ連側は日本軍による協定違反を主張していた。両者の説明は、武力衝突の発端について正反対の立場を取っている。
また、当時のソビエト中央政府と、現地で行動していたトリャピーツィンの部隊は、政治的にも必ずしも一枚岩ではなかった。中央政府は対日戦争の回避を模索していた一方、現地の革命派には強硬な対日路線を取る勢力が存在していた。
ロシア側史料で重要なグートマンの報告ロシア側の事件資料として知られるのが、アナトリー・ヤコヴレヴィチ・グートマン(A・Ya・Gutman)が1924年にベルリンで刊行した『ニコラエフスクの破壊』である。
原著はロシア語で書かれ、2020年には日本語訳『ニコラエフスクの日本人虐殺――一九二〇年、尼港事件の真実』が刊行された。
同書には、事件直後のロシア側調査委員会の報告や、生存者・関係者の証言、トリャピーツィンによる住民への通告などが収録されている。日本側の公文書だけでは見えにくい現地の政治情勢や、ロシア人住民の被害を考えるうえでも参考になる。
ただし、グートマンの著作は革命派に批判的なロシア亡命者による記録という性格も持つ。ソビエト政府の外交文書、現地の行政記録、白軍側の証言、日本の外交記録を相互に照合する必要がある。
関係主体と史料から見える事件の構図| 主体・関係者 | 事件との関係 | 史料から確認できるポイント |
|---|---|---|
| 日本軍守備隊 | ニコラエフスクに駐屯 | 3月の武力衝突で壊滅的な被害を受けた。日本政府は軍人約306人の犠牲を推計した。 |
| 日本人居留民・領事館 | 現地の民間人・外交関係者 | 商工業者や家族、石田虎松領事らが犠牲となった。 |
| トリャピーツィン | パルチザン部隊の指導者 | 日本軍との衝突を主導した現地革命派の中心人物。中央ソビエト政府と同一視できない。 |
| ソビエト中央政府 | 事件後の外交対応 | チチェーリンが日本軍の協定違反を主張する一方、事件への遺憾を表明し交渉を呼びかけた。 |
| 日本政府・外務省 | 事件調査と対露政策 | 犠牲者を約700人と発表し、北樺太の保障占領を外交政策として進めた。 |
| 北樺太・日ソ両政府 | 事件後の国際関係 | 日本軍の保障占領は1925年の日ソ基本条約と撤退協定によって終結した。 |
史料を照合すると、比較的明確な事実と、現在も見解が分かれる問題を区別できる。
最初に、日本軍守備隊と日本人居留民に多数の犠牲者が出たこと、捕虜となった日本人も後に殺害されたこと、市街地が破壊されたことは、日本側の外交記録や米国の外交報告などから確認できる。
一方、3月の武力衝突で最初に攻撃したのは誰だったのか、停戦や武装解除をめぐる合意がどのように破綻したのかについては、日本側とロシア側の説明に食い違いがある。事件直後に当事者の多くが死亡し、現地の記録も失われたことが検証を難しくしている。
井澗裕の2013年の研究「アジテーター市川與一郎と『物語』としての尼港事件」も、事件の一次資料が極度に不足している点を指摘している。また、従来の事件像が日本のシベリア出兵全体をどう捉えるかという問題と密接に結び付いてきたことを論じている。
したがって、尼港事件を「日本側の説明がすべて正しい」とすることも、「日本軍が攻撃したのだから虐殺は正当化される」とすることも適切ではない。衝突の発端に関する議論と、捕虜・民間人の殺害という問題は、分けて検討する必要がある。
【尼港事件の歴史的影響】北樺太保障占領から1925年の日ソ基本条約へ
1920年7月3日:日本政府が北樺太保障占領を表明尼港事件を受け、日本政府はロシア側に対して責任の明確化と事件の解決を求めた。しかし、当時のロシアでは革命と内戦が続き、日本政府が交渉相手として認められる安定した政府が存在しなかった。
そこで日本は、1920年7月3日の声明で、正当な政府が成立し、事件が満足のいく形で解決されるまで、サハリン州内の必要な地点を占領する方針を示した。これが北樺太保障占領の政策的な根拠となった。
なお、日本軍はそれ以前の4月にも北樺太方面へ進出しており、7月3日は保障占領を政府の政策として明確に表明した重要な日付である。
この「保障占領」という言葉は、事件解決までの安全保障措置という日本政府の説明を反映している。北樺太を正式に日本領へ編入したという意味ではない。
北樺太保障占領は何を目的としていたのか北樺太保障占領には、複数の目的が重なっていた。
第一は、尼港事件の責任をめぐる外交交渉上の圧力である。日本政府は、事件の解決が実現するまで軍事的な拠点を維持する方針を取った。
第二は、ロシア極東における軍事・安全保障上の利益だった。北樺太は日本領だった南樺太と隣接し、アムール川河口や沿海州方面とも関係する戦略的な地域だった。
第三は、石油や石炭などの天然資源への関心である。北樺太には資源開発の可能性があり、占領期間中には日本の商工業者も進出した。
ただし、占領によって日本の経済的利益が順調に拡大したわけではない。
竹野学の2013年の研究「保障占領下北樺太における日本人の活動(1920-1925)」によれば、進出した日本人移住者の多くは商工業者だったが、現地の商機は限られていた。交通インフラの未整備や中国人商人の台頭などもあり、日本人居留民は次第に撤退していった。
1922年のシベリア撤兵と1925年の北樺太撤退は別の出来事ここで混同されやすいのが、日本軍のシベリア撤兵と北樺太撤退の時期である。
日本軍は1922年に沿海州などシベリア本土から撤退したが、北樺太の保障占領は継続した。つまり、シベリア出兵の終了と北樺太からの撤退は同時ではなかった。
北樺太の問題は、その後の日ソ国交正常化交渉に引き継がれた。両国は北京で交渉を続け、最終的に1925年1月20日、日ソ基本条約に調印した。
1925年の日ソ基本条約で保障占領が終結日ソ基本条約は、日本とソビエト社会主義共和国連邦の外交関係を樹立するための条約である。1917年のロシア革命以降、断絶していた両国の外交関係が正式に回復することになった。
条約には、ポーツマス条約の効力を確認する規定などが含まれた。また、付属議定書では日本軍の北樺太撤退と資源利権の問題が扱われた。
日本側は北樺太からの撤兵を約束し、その期限は1925年5月15日とされた。一方、ソビエト側は北樺太における日本の石油開発利権を認めることになった。
日本の公文書にある「北樺太派遣軍ノ撤退」や、1925年5月1日に調印された北サガレン行政の引き渡し・占領終了に関する細目協定は、この過程を確認するうえで重要な記録である。
こうして1920年に始まった北樺太保障占領は、1925年5月の日本軍撤退によって終わった。尼港事件は、結果として約5年間にわたる日本の北樺太軍事占領と、日ソ関係正常化の交渉を結び付ける出来事となった。
尼港事件が日本社会に残した影響事件の影響は外交や軍事政策だけにとどまらなかった。
1920年、日本国内では犠牲者を追悼する集会が各地で開催され、遺族への義捐金を集める運動も広がった。新聞報道や追悼行事を通じて、尼港事件はロシア革命やボリシェヴィキに対する恐怖・反感を強める出来事として受け止められた。
井竿富雄の研究によると、募金は一般市民の自発的な活動から始まり、政府関係機関も後から対応に加わった。事件をめぐっては、原敬内閣の責任や救援の遅れについて、帝国議会でも批判が出ている。
また、事件は日本国内の対ソ世論や反共意識にも影響を与えた。政府や軍部が事件を対外強硬政策の根拠として利用した側面があり、後世の研究では、その報道や政治的な意味付けも検証対象となっている。
ただし、当時の日本社会の反応をすべて一方向の排外主義と捉えるのも正確ではない。遺族への同情、政府の責任を追及する動き、シベリア出兵そのものへの批判など、複数の反応が並存していた。
【尼港事件に関するよくある質問(FAQ)】
Q1:尼港事件とは簡単にいうと何ですか?
A1:1920年のシベリア出兵中、ロシア極東のニコラエフスクで日本軍守備隊と革命派パルチザンが衝突し、日本軍人や日本人居留民、領事館関係者ら多数が殺害された事件です。捕虜の殺害や市街地の焼失も発生しました。
Q2:尼港事件の日本人犠牲者は何人ですか?
A2:日本政府は1920年6月の推計で軍人約306人、民間人約350人、合計約656人を挙げました。同年7月の声明では約700人と説明しています。後世には730人以上とする記述もありますが、確定した犠牲者数には幅があります。
Q3:トリャピーツィンは誰ですか?
A3:ロシア革命・内戦期にアムール川下流域で活動した革命派パルチザンの指導者です。ニコラエフスクでの日本軍との衝突を主導した人物として知られています。アナーキスト的な思想を持ち、ソビエト中央政府の対日外交方針と現地の強硬路線には違いがありました。
Q4:尼港事件が北樺太保障占領につながったのはなぜですか?
A4:日本政府が事件の解決と責任の明確化を求め、正当なロシア政府が成立するまで必要な地域を占領する方針を示したためです。1920年7月に保障占領が明確化され、1925年の日ソ基本条約と撤退協定によって終了しました。
Q5:尼港事件の真相は現在も分かっていないのですか?
A5:日本人の大量殺害、捕虜の殺害、市街地の破壊などは複数の史料から確認できます。一方、3月の武力衝突で最初に攻撃した主体や、合意が破綻した具体的な経緯については、日本側とロシア側の記録に食い違いがあり、引き続き史料の比較検証が必要な問題です。
尼港事件は、1920年のシベリア出兵中にニコラエフスクで発生した、日本軍守備隊・日本人居留民らの大量殺害を伴う重大事件である。3月の武力衝突、約130人の生存者の拘束、5月25日の捕虜殺害、市街地の焼失という経過は、日本外交文書や米国外交報告などにも記録されている。
事件の背景には、ロシア革命と内戦、日本軍のシベリア駐留、現地パルチザンの反干渉運動、そして日本とロシアの安全保障・資源をめぐる利害対立があった。
事件後、日本は北樺太の保障占領に踏み切った。占領は1925年の日ソ基本条約による国交正常化と撤退協定を経て終了し、両国の関係は新たな段階へ進んだ。
尼港事件を歴史的に評価する際に重要なのは、次の3点である。
- 確認できる事実:日本軍人・民間人の大量殺害、捕虜の殺害、市街地の破壊。
- 慎重な検証が必要な問題:3月の武力衝突の発端、停戦合意の内容、現地革命派とソビエト中央政府の関係。
- 長期的な影響:北樺太保障占領、日ソ基本条約による国交回復、対ソ世論や日本の外交・軍事政策への影響。
日本側の公文書だけを読めば、事件は日本人犠牲者の悲劇として理解されやすい。一方、ロシア側の資料を加えると、革命期の現地政治、外国軍の駐留、ロシア人住民の被害、中央政府と地方勢力の対立も浮かび上がる。
尼港事件は、犠牲者への追悼と歴史的な事実検証を両立させなければならない出来事である。2026年の今日も、事件をシベリア出兵全体の歴史と日露・日ソ関係の変遷の中に位置付けて考えることが、その本質を理解するための重要な手掛かりとなる。
主な史料・研究資料
- 外務省『日本外交文書』大正9年(1920年)第1冊下巻。
- 米国国務省『Foreign Relations of the United States, 1920, Volume III』。
- 井竿富雄「尼港事件と日本社会、一九二〇年」(2009年)。
- 井澗裕「アジテーター市川與一郎と『物語』としての尼港事件」(2013年)。
- シュラトフ・ヤロスラブ「ロシア革命とサハリン――日露関係から日ソ関係へ(1917-1922年)」(2020年)。
- 原暉之・兎内勇津流ほか『日本帝国の膨張と縮小――シベリア出兵とサハリン・樺太』(北海道大学出版会、2023年)。
- 竹野学「保障占領下北樺太における日本人の活動(1920-1925)」。
- 国立公文書館「日ソ基本条約が結ばれる」。