2026年11月現在も、日本の南極観測史を象徴する存在として語り継がれている樺太犬のタロとジロ。1958年2月、第2次南極観測隊が越冬を断念したことで、2頭を含む15頭の犬が南極の昭和基地に取り残された。しかし、約11か月後の1959年1月14日、第3次南極観測隊が基地を訪れると、タロとジロの2頭が生きているのを発見した。この出来事は、日本中に大きな感動を与え、1983年公開の映画『南極物語』の題材にもなった。
では、タロとジロはなぜ極寒の南極で生き残れたのか。何を食べていたのか。そして、再発見された後、2頭はどのような生涯を送ったのだろうか。国立極地研究所の展示資料、南極観測に関する記録、北海道大学の資料などをたどると、奇跡の裏側にある厳しい現実と、現在も残る謎が見えてくる。
【なぜ15頭が南極に残されたのか】第2次南極観測隊の越冬断念と宗谷の苦難

日本の南極観測事業は、国際地球観測年(IGY)に参加する国家的な科学プロジェクトとして始まった。
1956年11月、南極観測船「宗谷」が第1次南極地域観測隊を乗せて日本を出発。翌1957年1月には南極大陸のオングル島に上陸し、昭和基地を開設した。
当時の南極観測では、現在のような雪上車や航空輸送の体制が十分に整っていなかった。物資の運搬や内陸部の調査に欠かせなかったのが、犬ぞりである。
そこで選ばれたのが、北海道などで使役犬として活躍していた樺太犬だった。
国立極地研究所の展示資料によると、当初は約1,000頭の候補から40〜50頭が選ばれて訓練を受け、最終的に22頭が第1次隊とともに南極へ渡った。
タロとジロも、その犬ぞり隊の一員だった。
1958年2月24日、第2次隊が越冬を断念問題が発生したのは、翌1957年から1958年にかけての隊員交代だった。
第2次観測隊を乗せた「宗谷」は、1957年10月21日に日本を出発。しかし、同年12月31日、南極の厚い海氷に閉じ込められ、身動きが取れなくなってしまう。
その後、約40日間にわたって厳しい状況が続いた。
1958年2月には、アメリカの砕氷艦「バートン・アイランド号」の救援も受けながら、第1次越冬隊員の収容が進められた。
しかし、問題は第2次越冬隊だった。
天候は回復せず、燃料や飲料水も不足。度重なる船体の損傷によって、宗谷自体の安全性も懸念されるようになった。
第2次越冬を実施するための輸送計画も成立しない。
そして、1958年2月24日、第2次観測隊は越冬断念を決定した。
この決断によって、昭和基地に残されることになったのが、タロとジロを含む樺太犬15頭だった。
犬たちは第2次越冬隊に引き継がれる予定だったため、基地に係留されたままだった。人間の撤収が優先され、犬たちを全頭救出することはできなかったのである。
これは単純な置き忘れではない。船の安全、隊員の生命、輸送能力、天候という複数の制約が重なった結果だった。しかし、犬たちが残された事実は、南極観測史における重大な悲劇として記憶されている。
【1959年1月14日の奇跡】タロとジロの発見までを年表で整理
第3次南極観測隊が目撃した2頭の犬第2次隊の苦い経験を受け、日本側は宗谷を大改装した。大型ヘリコプターを2機搭載できるようにし、次の観測隊では航空輸送能力の強化を図った。
1958年12月、第3次南極観測隊が再び日本を出発。
そして翌1959年1月14日、昭和基地に向かった航空機から、2頭の犬の姿が確認された。
現場にいたのは、第1次越冬隊で犬の世話を担当し、第3次隊にも参加していた北村泰一隊員だった。
北村隊員は、目の前に現れた2頭がタロとジロであることを確認した。
前年に南極へ残された15頭のうち、2頭だけが生存していたのである。
国立極地研究所の資料によると、残る13頭の状況は次のとおりだった。
- 7頭:鎖につながれたまま死亡
- 6頭:行方不明
- 2頭:タロとジロが生存
つまり、15頭すべての生死が判明したわけではない。1959年の発見時点で確認できたのは、7頭の死亡と2頭の生存であり、残る6頭は行方不明だった。
タロとジロをめぐる重要な出来事| 年月日 | 出来事 | 内容 |
|---|---|---|
| 1956年11月 | 第1次隊出発 | 22頭の樺太犬が宗谷で南極へ |
| 1957年1月 | 昭和基地開設 | 日本の南極観測が本格化 |
| 1957年10月21日 | 第2次隊出発 | 宗谷が再び南極へ向かう |
| 1957年12月31日 | 宗谷が氷に閉じ込められる | 厳しい海氷と天候に阻まれる |
| 1958年2月24日 | 越冬断念 | 樺太犬15頭が昭和基地に残される |
| 1959年1月14日 | タロ・ジロ発見 | 第3次隊が2頭の生存を確認 |
| 1960年7月 | ジロ病死 | 第4次越冬中に昭和基地で死亡 |
| 1961年5月 | タロ帰国 | 南極での生活を終えて日本へ |
| 1970年8月11日 | タロ死亡 | 14歳7か月で生涯を終える |
1959年1月14日は、現在「愛と希望と勇気の日」とも呼ばれている。タロとジロの生存確認が日本社会に与えた衝撃の大きさを物語る日付だ。
【タロとジロはなぜ生き残れた?】何を食べたのか、判明していること
この物語で最も多くの人が疑問に感じるのが、食料も人間もいない南極で、2頭がどのように生き延びたのかという点だ。
実は、現在も具体的な食事内容を完全に証明する記録は残っていない。
ただし、当時の記録や関係者の著書から、いくつかの有力な手掛かりが得られる。
1.基地に残された犬用の餌は食べていなかった国立極地研究所の南極・北極科学館が公開している展示資料では、昭和基地に残されていた犬用の餌は、身欠きニシンだったと説明されている。
ところが、第3次隊が基地に戻った際、この餌には手がつけられていなかった。
つまり、タロとジロは、基地に残された備蓄食料を食べ続けて生き延びたわけではない。
この事実が、2頭の生存理由を考えるうえで重要な手掛かりになっている。
2.アザラシの糞などを食べていたという説有力な仮説として知られているのが、アザラシの糞を食料としていたという説だ。
北村泰一氏の著書『南極第一次越冬隊とカラフト犬』を調べた埼玉県立久喜図書館のレファレンス協同データベースでは、タロとジロが食べていた可能性のあるものとして、ペンギンやアザラシの糞が紹介されている。
また、南極観測船「宗谷」の展示資料を紹介する船の科学館関係資料でも、アザラシの糞などを食べて生き延びた可能性が示されている。
アザラシの糞には、消化されずに残った魚類などが含まれる場合がある。食料が極端に限られた環境では、こうしたものも栄養源になり得る。
ただし、これは生存当時の食事を直接確認した結果ではなく、関係者の証言や状況から導かれた推測である。
ペンギンなどを実際に捕食していたのか、どの程度の栄養を得ていたのかも、確定していない。
3.樺太犬の身体的な強さと環境への適応もう一つの重要な要素は、樺太犬という犬種の特徴だ。
樺太犬は、サハリンや千島列島などの寒冷地域に適応してきた犬で、厚い被毛と強い体力を持つ。北海道でも古くから犬ぞりや荷物運搬などに使われていた。
nippon.comが紹介した資料では、樺太犬はマイナス40度にも耐え、2週間程度食べなくても耐えられる犬として説明されている。
もちろん、食事を取らずに約11か月を生きられるという意味ではない。
しかし、厳寒への適応能力や体力、食料が少ない状況に耐える性質は、生存に有利に働いた可能性がある。
4.係留から逃れたことが生存の分岐点だった15頭のうち7頭は、鎖につながれたまま死亡していた。
一方、タロとジロは生存していた。
この違いから重要になるのが、犬たちが係留から逃れられたかどうかだ。
船の科学館関係資料では、死亡した7頭とは別に、首輪を外して逃れた犬たちがいたことが紹介されている。
タロとジロも、係留された場所から離れ、周辺を移動できる状態になったことで、食料を探す機会を得たと考えられる。
昭和基地は南極大陸の内陸部ではなく、沿岸のオングル島に位置する。周辺には海洋生物が生息する環境がある。こうした地理的条件も、自然由来の食料を得られた可能性を考えるうえで重要だ。
生存理由について、何が確実で何が推測なのか| 論点 | 分かっていること | 確実性 |
|---|---|---|
| 基地の餌 | 身欠きニシンは食べられていなかった | 展示資料で確認 |
| アザラシの糞 | 食料にしたという説がある | 有力な推測 |
| ペンギン | 食料候補として関係者の著書に登場 | 未確定 |
| 係留からの脱出 | 生存犬は死亡した係留犬とは状況が異なる | 状況証拠 |
| 寒冷への適応 | 樺太犬は寒さに強い犬種 | 犬種の特徴 |
| 2頭が助け合ったか | 兄弟犬だったが、具体的な行動の詳細は不明 | 未解明 |
重要なのは、タロとジロの生存を一つの理由だけで説明できないことだ。
係留から逃れられたこと、自然の食料を得られた可能性、樺太犬の身体的な強さ、南極の沿岸環境。これらの条件が重なったことが、生存を支えたと考えられる。
【タロとジロのその後】ジロは1960年に病死、タロは1961年に帰国
1959年1月14日に発見されたタロとジロは、そのまま日本に帰国したわけではない。
2頭は第3次観測隊が連れてきた犬たちとともに昭和基地で生活を続けた。
その後、第4次観測隊の越冬にも参加することになる。
ジロは1960年7月、昭和基地で病死ジロは第4次越冬中の1960年7月、南極の昭和基地で病気のため亡くなった。
当時、ジロは日本へ帰国することなく、南極で生涯を終えた。
その後、剥製として保存され、現在は東京都台東区の国立科学博物館に所蔵・展示されている。
タロとともに過酷な南極の冬を生き抜いたジロは、最後まで南極観測の歴史と結びついた存在だった。
タロは1961年5月に日本へ帰国一方、タロは第4次観測隊以降も南極で生活を続け、1961年5月に帰国した。
帰国後のタロが暮らしたのは、北海道大学植物園だった。
南極から戻ったタロは、昭和天皇・香淳皇后との対面も果たしている。
そして、1970年8月11日、14歳7か月で亡くなった。
帰国後は北海道大学植物園で余生を送り、死後は剥製として保存された。現在も同植物園でタロの姿を確認できる。
2026年現在、2頭の姿はどこで見られる?タロとジロは、亡くなった後も剥製として保存され、南極観測の歴史を伝えている。
- タロ: 北海道大学植物園で保存・展示。
- ジロ: 国立科学博物館で保存・展示。
2頭が別々の場所にいることには、それぞれ異なる生涯を送った歴史が反映されている。
タロは南極から日本へ帰り、北海道で生涯を終えた。ジロは日本に帰ることなく、南極で病死した。
同じ場所で生まれ、同じ船で南極に渡り、同じ危機を乗り越えた兄弟犬の運命は、最後には大きく分かれたのである。
【南極物語と実話の違い】映画で描かれたドラマと実際の記録
タロとジロの物語を語るうえで欠かせないのが、1983年7月23日に公開された映画『南極物語』だ。
高倉健、渡瀬恒彦、夏目雅子らが出演し、蔵原惟繕が監督を務めた作品である。
フジテレビの作品紹介でも、南極に残された15頭の樺太犬の実話を基に、犬たちの生存への闘いと観測隊員たちの葛藤を描いた作品として紹介されている。
ただし、映画は記録映像や史実の完全な再現ではない。
違い1:映画の登場人物は実際の隊員記録そのものではない映画では、高倉健が潮田暁、渡瀬恒彦が越智健二郎を演じた。
この2人は映画の物語を構成する登場人物であり、実際の観測隊員の記録とそのまま同一視することはできない。
史実で重要なのは、1959年の第3次隊に参加し、タロとジロを識別した北村泰一隊員の存在だ。
北村氏は第1次越冬隊でも犬の世話を担当していた人物であり、2頭の発見に直接関わった。
違い2:15頭全員の運命が分かっていたわけではない映画では、15頭の犬たちが極寒の南極で生きるために戦う姿がドラマチックに描かれる。
一方、実際の1959年の発見記録では、7頭が係留されたまま死亡し、6頭が行方不明、2頭が生存していた。
つまり、発見時に確認できたのは2頭の生存であり、ほかの13頭すべての最終的な運命が明らかになったわけではなかった。
映画の犬たちの行動や個別のエピソードには、物語としての演出が加えられている。
違い3:タロとジロは発見後すぐに日本へ帰っていない映画の印象から、2頭が再発見されてすぐ日本へ戻ったと思っている人もいるかもしれない。
しかし、実際にはそうではない。
ジロは1960年7月に南極で病死し、タロが日本へ帰国したのは1961年5月だった。
発見から帰国まで、2頭は引き続き南極で生活していたのである。
実話と映画の比較| 比較項目 | 実際の歴史 | 映画『南極物語』 |
|---|---|---|
| 作品・出来事 | 1958〜1961年の南極観測 | 1983年公開の映画 |
| 犬の置き去り | 樺太犬15頭 | 15頭を中心に描写 |
| 発見日 | 1959年1月14日 | 実話を基にした物語 |
| 犬の生存 | タロとジロの生存を確認 | 犬たちの生存闘争をドラマ化 |
| 隊員の描写 | 実際の隊員による観測記録 | 潮田・越智など映画独自の人物設定 |
| ジロの最期 | 1960年7月、南極で病死 | 映画上の物語として描写 |
| タロの帰国 | 1961年5月 | 史実の全経過を再現する作品ではない |
映画は、南極観測に関わった人々と犬たちの絆を広く伝えた作品として大きな意味を持つ。
一方、史実を知るには、国立極地研究所の資料や観測隊員の記録を合わせて確認することが欠かせない。
【もう一つの南極の謎】タロとジロ以外にも生き残った犬がいた?
タロとジロの物語には、あまり知られていないもう一つの論点がある。
それが、第三の生存犬と呼ばれる存在だ。
長年、1959年に生存が確認された犬はタロとジロの2頭とされてきた。
しかし、1968年、昭和基地付近の雪が解けた場所から、別の樺太犬の遺体が発見されたという証言が残されている。
この出来事を詳しく調べたのが、タロとジロを実際に識別した北村泰一氏と、新聞記者の嘉悦洋氏だった。
2020年に刊行された書籍『その犬の名を誰も知らない』では、行方不明になっていた犬の1頭、リキが第三の犬だった可能性が取り上げられている。
加えて、リキがタロとジロを守っていたという見方も紹介されている。
ただし、1968年に発見された遺体には詳細な検死記録や十分な写真資料が残っていないとされる。リキと断定できる公的な個体識別資料が確立しているわけではない。
ここで注意したいのは、1968年まで生き続けていた犬がいたという意味ではないことだ。
第三の犬の存在は、タロとジロ以外にも係留から逃れ、一時的に生存していた犬がいた可能性を示すものとして興味深い。
15頭の犬たちの物語は、2頭の奇跡だけでは語り尽くせないのである。
【タロとジロに関するよくある質問(FAQ)】
Q1:タロとジロはなぜ南極で生き残れたのですか?
A1:係留から逃れたことで行動範囲が広がり、アザラシの糞など自然界にある食料を得た可能性が指摘されている。また、樺太犬の寒冷地への適応能力や体力も生存に有利に働いたと考えられる。ただし、具体的な生存理由は完全には解明されていない。
Q2:タロとジロは南極で何を食べていたのですか?
A2:有力な説はアザラシの糞やペンギンなどに由来する食料を口にしていたというもの。基地に残されていた身欠きニシンには手がつけられていなかった。実際に何をどれだけ食べたかを証明する記録はない。
Q3:タロとジロは現在どこにいますか?
A3:2頭はすでに亡くなっている。タロは1970年8月11日に14歳7か月で亡くなり、剥製は北海道大学植物園で保存・展示されている。ジロは1960年7月に南極で病死し、剥製は国立科学博物館に保存・展示されている。
タロとジロが南極で生き残れた理由は、単なる偶然だけでは説明できない。
樺太犬としての身体的な強さ、係留から逃れたこと、自然の食料を得られた可能性、そして沿岸環境。さまざまな条件が重なったことで、約11か月に及ぶ過酷な環境を生き抜いたと考えられる。
1959年1月14日の発見は、南極観測史に残る出来事となった。
しかし、その背景には、7頭の死亡と6頭の行方不明という厳しい現実があった。ジロは1960年に南極で病死し、タロも1961年に帰国するまで南極で生活を続けた。
1983年の映画『南極物語』が伝えた感動は、実際の観測隊員や樺太犬たちが経験した出来事があったからこそ生まれたものだ。
2026年現在、タロとジロの剥製はそれぞれ北海道大学植物園と国立科学博物館に保存されている。2頭の姿を通して伝わってくるのは、生命の強さだけではない。極限環境に挑んだ人間の責任、自然の厳しさ、そして南極観測を支えた動物たちの存在でもある。
タロとジロの物語を知るとき、忘れてはならないのは、奇跡的に生き残った2頭だけではない。南極に渡った15頭すべての樺太犬が、日本の南極観測史を支えた大切な仲間だったという事実である。
主な根拠資料・照合先
- 国立極地研究所「南極観測隊のはじまりとあゆみ」:第2次隊の越冬断念、1959年1月14日の発見、死亡・行方不明の頭数。
- 国立極地研究所「昭和基地に行った犬」:樺太犬の派遣経緯と各隊の犬の記録。
- 船の科学館関係資料:タロとジロの生存説、ジロの病死、タロの帰国。
- 北海道大学の情報発信:タロの没年月日と年齢。
- フジテレビ「映画『南極物語』」作品紹介:映画の設定と出演者。
- nippon.com、PHPオンライン:第三の犬とリキをめぐる証言・調査。